秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

テレビは大事な話をしなくなった

一昨日、昨日はNHKの地上波でも、BSでも、さらには民放でも特番を組んで被災地の取材番組や生放送を流していた。

その多くは、あのときのあの記憶をたどるものであったり、進捗の見えない復旧や復興の現状を語るものだった。あるいは、いろいろな傷をかかえながら、日常を取り戻そうと励む人々の姿だったりした…。

そのひとつひとつは貴重な取材だと思う。また、内容のいかんにかかわらず、そうした取材が入ることで励みになる人もいれば、元気になれる人もいる。マスコミがくるというだけでも、多くの人に現実の姿を伝えることになり、関心を持ち続けてもらう機会にはなる。

だが、どこか、なにかが、ひっかかる…どの番組をみていても、どうしても、しかし…という言葉が浮かんでしまうのはオレだけだったのだろか。
 
相変わらず、民放は、善意の人、正義の装いで被災地や被災地域の人々を描ぎ、その代弁者の姿勢のままだ。それでいながら、明らかに視聴者の涙腺を刺激し、憐み、同情を誘うような番組のつくり方をしている。がんばる人の姿で、がんばる被災地を語ろうとする。

 
原発事故にかかわった人々を美談に仕上げ、名もなきヒーローとして紹介することで、がんばる人で、視聴者の共感を得ようとする。また、逆に、放射能線量の問題をことさら話題にしている番組もある。
 
明らかに、人々の興味と関心のある話題をとり上げ、それによって視聴率を上げようという筋書きが見える。

批判は承知であえていえば、そうした意図があったかどうかは別にして、オレには被災地や被災地の人々、そして原発にかかわり、かつその被害の中にある人々が、立ち上がろうとする人々が、どこかテレビ放送の見世物のように扱われている気がしてならなかった。

現実に深く足を踏み込んでいるとは感じられなかったのだ。

伝えるべきはそうしたことなのだろうか。提言すべきことはそうしたことなのだろうか。
もっと大事なことが他にあるのではないか…そう思えて仕方なかった。

編集作業でこの時間になった。2年前のこの時間。そこで起きていたことは、テレビの中で伝えているような言葉では語り尽くせない情景だったはずだ。それを思えば、震災から2年の時間とこれからの時間、そのあり方と方向性について、もっと違う取材をし、語り合うべきことはあったと思う。

亡くなったいのちを敬い、嘆くのは当然だ。だが、そのいのちを無駄にせず、意義あるものに変えていくには、やるべきこと、考えるべきことがもっと他にもある。

慰霊の日は一日ではない。慰霊を生き、そのいのちを明日に生かすことが私たち日本人の生きる日常なのだ。いままでの日常を根本から問い直す決意と覚悟を生きる時代なのだ。

テレビは大事な話をしなくなった。