秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

糸口

当時者のひとりである。いまほど、その意識が薄らいでいる時代はこれまでなかった。そう思うのは私だけだろうか。

福島の原発事故はもとより、その後の放射能汚染対策、遅々として進まない汚染廃土処理の問題、あるいは、沖縄の辺野古基地問題、ひいては、戦後70年の沖縄の抱えた問題、広がる格差…

いずれにしても、日本という国が抱えている問題であり、つまり、私たち国民が抱えている問題だ。ところが、この問題について、国民生活のあちこちで話題となり、議論されているという状況は生まれていない。

憲法についても、国民主権の上に誕生している最高法規について、国民全体が議論の対象とし、意見を闘わせるという場は、あちこちに出現していない。

国の行く末にかかわる、この3つの大きな課題について、政財界ではなく、ましてマスコミの中ではなく、稚拙でも、たどたどしくとも、人々の中で、「ほんじゃ。ちょくら集まって、議論すっ
ぺ」といったことが日常になっていない。

それは、福島のことであり、沖縄のことであり、国政のやること。そのように決断の当時者であることから体を交わし、「そっだらことにかかわってる時間も、ゆとりもねぇ。おらたちは食うのが精一杯だ」と、生活の時間に埋没し、当時者意識を持とうとはしない。

それは同時に、自分たちも福島第一原発事故被害を生んだ側の当時者のひとりであり、沖縄の基地問題を放置してきたひとりであり、政治家は当てにならないという政治家を世に出しているひとりであるという自覚もないということだ。

批判できる対象は、常に自分たち以外のなにかにあり、自分たち自身は決して批判の対象となるような課題の要因にはなっていない…。それも、当時者意識の自覚のなさが生んでいる。これは、福島県民においても、沖縄県民においても同じことだ。

つまり、被災者であろうが、被害者であろうが、戦後70年の中で、原発を、沖縄を、国政を容認し、黙認し、承認してきたのだ。賛同しなかった者はいたとしても、反対運動にかかわっていたとしても、現実に、その問題を変えることができていなかったということは、等しく、すべてが当時者なのだ。

その意識に立てば、福島も、沖縄も、国政も、決して、他人事ではなく、ただ批判の対象をみつけだし、それをたたけばいいことではなく、国民全体がこの道をこれまでのように行くのか、変えるのかの根本的な議論を同じ立場で始めなくてはいけない。

かつて、学生運動が盛んな頃、自己批判が盛んに行われた。

いま、そういっているお前はどうなのだ。これまでの言動の中で、いまいっている正論に反していることはしてこなかったのか。その追及と背中合わせで、議論を強いられた。強いられてそれをやるというのには問題がある。まして、自己批判の果てに肉体的弾圧、つまり暴力を持ち出したことも問題がある。

だが、共通の反省と自己批判のないところで、次の道は決して拓けない。共通の反省と自己批判がないために、議論がすべて権利闘争や利権闘争、権力闘争にすり替わっている。自分たちの国の生きる道を自分たちはどうするのかの議論になっていない。

この意見にはきっと反論も多いだろう。だが、これまでと同じ議論をしていては、これまでの議論で変えられなかった問題は次への糸口をみつけられない。形ばかりが整い、金銭が人を黙れらせ、結果、変えられないまま、過去になった問題がまた、次の世代の問題へと先送りされていく。