今日の自己は明日の自己ではない
Today's ego is not Tomorrow's ego, Yesterday's ego is not Today's ego.
今日の自己は明日の自己ではない、昨日の自己は、今日の自己ではない。
これはオレが大学の卒論のテーマにした、アイルランド出身で、その後半生をパリで過ごし、戯曲も小説もフランス語で書き続けた、ノーベル賞作家、Samuel Beckettの“Proust”(ブルースト論)にある重要な一節。
実は、これ、仏教の教えにも通じている。驚異的な頭脳を持つベケットは、ドイツ表現主義やロシアシンボリズム、実存主義、ドゥルーズ、デリタ、フーコーの現象学といった新しい哲学、宗教学にも造詣が深った。オレの好きなパシュラールの影響もある。
ベケットの評論はそう多くはないのだが、このプルースト論を読むと仏教を学んだことがあるものなら、そこにいくつもの符号があることに気づく。それは、映画『マトリックス』が、哲学、宗教学の一大叙事詩になっており、そこにキリスト教ばかりでなく、仏教の影響も強く読み取れるのと似ているのだ。
人は、自己確認と存在証明のために、常に自己に一貫性を求める。そして、それが永遠に続くものだという幻想を抱いている。
しかし、果たして、自分は、本当にこれまでの人生を、あるいは、いまの人生を揺るぎない一貫性の中で生きているのか?
数カ月前の自分といまの自分、そして、まだ見ぬ数か月後、あるいは数年後の自分が同じ一貫性と生き方の価値観を共有する存在でありえるだろうか?
そういう確かさを持って人が日々生きているという証明をえることは、実は至難。逆に、自分という存在は不確かな存在であるという証明を得る方が、数式の解答は簡単に解ける。
しかし、人々は、自分が何者であるかの存在があやふやになればなるほど、不安に圧倒される。だから、あえて、存在のあやふやさに目を向けようとしていない。
たとえば、チェニジアに始まり、エジプトで火のついた民衆運動は、いまイエメンをはじめ、北アフリカ地域に次々に飛び火している。
これまで独裁政権は、独裁は永遠に続くものという、あいまいな自己証明の中にいた。同時に、民衆は冷遇と貧困に隷従することが自分たちの人生であると、自己の存在を固定化し、認定していた。しかし、こうして民衆運動が起きると、それぞれの存在証明であったものが、一瞬に反故になることが起こり得る。
その瞬間から、独裁者、あるいは治世者は、その存在証明を失い、民衆は蜂起したことによって、英雄であったり、革命家であったり、運動家に変貌する。
つまり、ことほどさように、人も、家族も、地域、社会、国も、世界も、確かな一貫性の中にあるということは証明できないのだ。
小沢問題の余波で、民主党内から造反者が出ている。市民は、内紛はいい加減にして、きちんとした政治をしてくれと街頭で口々にいう。マスコミも、野党もだめだが、与党はどうしようもないとサジを投げたことをいう。
人ばかりでなく、地域、社会、国といった、様々なレベルで、確かな存在証明など、ますます希薄になっているこの地球で、新しい数式の解答を求めるのではなく、旧来の政治とはかくあるべき、政治家はかくあるべきという一貫性を求める数式ばかりを連呼している。
そもそも、戦後65年持った存在証明の方が奇異で、不可思議で、かつ歪だったのだ。オレたちが生きる国も政治も、地域も、家庭も、実は根本において、不確かで、いつどのように変貌したり、溶解したりするかわからない。
それがわからないまま、新しい政治を選び、それがわからないまま、新しい政治を選んだ混乱を引き受ける構えができていない。
いかようにも、人も国も政治も変化する。家庭であれ、地域であれ、それは同じ。その基本にたって、これからの国、政治、地域、家庭を見つめ直すときにきている。