秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

抱きしめられたい 抱きしめたい

リビアの民衆運動と政変を見ていると、他人事のように思えないのはオレだけだろうか。
 
他人事には思えないというのは、北アフリカや中東ばかりでなく、まだまだ、世界の、この国のいたるところに、旧態依然とした価値観のもとで、終わってしまったシステムにすがり、存在そのものが形骸化しながら、それに気づかないという人々や組織があちこちに点在していると思えるからだ。
 
それではいけないと警鐘を鳴らしても、抜本的な改革をと、提言されても、過去の成功事例や経験主義に縛られて、アドバイスを受け入れない。あるいは、受け入れていると本人は思いながら、やっていることは拒絶の行動といったことが起きている。
 
あるいは、ごくまれに、変革が必要だと確信し、行動に出ても、変革の困難さにくじけ、妥協点や落としどころを探し、結局は、アリバイ的な変革や改革で終わるということが起きている。
 
今回の北アフリカから中東へと広がる民衆運動を地球規模のこれまでにない地殻変動だと認識している識者や政治家はどれほどいるのだろう。日本の報道や政治情勢を見ていると実に頼りないし、疑わしい。
 
このところ、ちょっと難しい話題ばかりだから、わかりやすくいえば、人はだれもが、だれかに抱きしめられたいと思っている。
 
生まれたときから、人はだれかに抱きしめられたいと思い、だれかを抱きしめることで、また、自分自身をも抱きしめられている。
 
抱きしめられるというのは、自分を受け入れ、自分のために自己犠牲をもいとわず、自分を守ろうとしてくれている「愛」を感じたいからだ。同時に、抱きしめる方も、抱きしめることで、自分を受け入れてもらっているという実感が得られ、そのために、何としても、その人を守ろうという「強い意志」を育てられる。
 
それは人は弱いものだという確認の上での互いをいとおしむ、相互扶助の愛だ。
 
そこには、調子のいい言い訳も、要領よく凌ごうという小賢しさも、自分だけの身を守ろうという保身も、ない。
 
いま世界が求めているのは、治世者や権力者が、それを支える富と権力のある者たちの側を向くのではなく、掛け値なしに、民衆、市民、国民のことを第一に考え、人々の幸せをまず先に考え、行動し、実現する治世だ。だから、治世者にできないのであれば、民衆の手で実現しようという運動が起きる。
 
北アフリカや中東ばかりでなく、ロシアにせよ、中国にせよ、フランス、イタリアにしても、そして、アメリカ、日本においても、いまの治世者たちは、互いが抱きしめ、抱きしめられる治世を実現しているだろうか。市民や民衆の心に届く治世を実現しているだろうか。
 
自分で自分を抱きしめる自己愛と権力の恩恵の中で、自分を抱きしめてくれる一部のものを抱きしめるだけの閉じた愛。それが、あるとき簡単に崩壊するという、先進国の未来の先取りがいま、北アフリカ、中東で起きている。
 
ゴルバチョフベルリンの壁崩壊前に東欧の独裁政権に言い続けた。「そんなことを続けていたら、いつか革命が起きますよ」。結果的に彼自身、その波にのまれたが、東西冷戦の壁を壊すパイオニアであったとは歴史的事実だ。
 
この国の、そんなことを続けていたら…と指摘される人々、団体、組織は、いつ、そのことに気づくのだろう。