秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

アナーキーな市民の自覚

数日前、遅い時間にコレドに顔を出すと、格安旅行会社社長のKさんがいた。
 
T大学教授秘書のTさんに不義理をして付き合えなかったとき、隣席にいた人物。初めてお会いしたKさんの話がなかなかおもしろかったと、Tさんに翌日不義理のお詫びのメールをしたら、返信にあった。
 
ああ、あのときの…と、Tさんつながりでしばし、会話をする。例によって、おバカな話から入り、そのうち、ちょっとまじめな話もする。
 
すると、ふとKさんがいった。「リベラリズムアメリカで勉強しましたが、難しくていまもまだわかりません…」。それを聴いた瞬間、かしこい人だなと直感した。
 
聴けば、UCLAで学んだという。端々から相当マジに学習した様子がわかる。
 
おそらく、Kさんがリベラリズムがわからないといったのは、ナショナリズムとしてのリベラリズムパトリオティズムとしてのリベラリズムの違いがどこにあるのか、その端境がはっきりつかめなかったのではないかと思う。
 
Kさんがよくわからないというように、リベラリズムは単に自由主義と日本語に訳すだけでは、とらえられない広がりがある。ネオコンのいう新自由主義も、そこにリベラリズムがあるからだ。イスラームのいうアメリカからの解放と自立にも自由主義がある。
 
ナショナリズムパトリオティズムはいつでも入れ替えできるし、また、いつでも同期できる。そこにリベラリズムの難しさがある。
 
「だから、ボクはアナーキストなんですけどね」。Kさんは、最後にそう付け加えた。リベラリズムを追及して、その罠にはまり、ネオコンのようなナショナリズムの落とし穴に落ちたくもないし、狭窄したパトリオティズムにもハマりたくない。
 
ならば、アナーキーである方がよほど自由であるではないか。それがKさんが辿り着いた生き方の選択だったのだろう。
 
いま、エジプトが大きく揺れている。
 
チェニジアの勝利と同じように、エジプトでも市民運動を弾圧するために投入された軍隊が、市民運動への攻撃を停止し、市民の保護に回った。
 
北アフリカに広がる長期政権打倒、独裁政権打倒の動きは、実は、ベルリンの壁がこわれたときの市民運動と同じ。国の自立や独立、宗教的な解放、少数民族の蜂起といった、それまでの解放闘争とはまったく姿が違う。
 
そして、決定的なのは、だれか一人のリーダーやテロリズムなどの前衛に牽引されたものではなく、そこいらにいる市民が自覚的、意志的、主体的に運動に参加していることだ。市民に自覚はないだろうが、イデオロギーや宗教ではなく、アナーキーな精神で行動を起こしている。
 
だからこそ、FaceBookのような、いわばアナーキーな情報ツールが大きく貢献できた。
 
自由の自己獲得と人権の主張。そこに基本、国境も宗教も民族もない。そして、解放のためには、既存制度の破壊と変更しかない。なぜなら、イデオロギーでもなく、国、宗教、民族といったナショナリズムパトリオティズムを根拠としなけば、制度の破壊しかなすべき目標はないからだ。
 
これを多数の市民の総意という集団の形をとられることが、権力者、治世者にとっては一番こわい。
 
60年安保のとき、アメリカはマジでびびった。それは、安保反対闘争に割烹着を着た主婦、子どもの手を引く母親、高齢者から若者まで、世代や職業を越えた、いわゆる大衆が大勢を占めていたからだ。厳密にいって思想よりも、生活の自由、安全といった実感が優先していた。
 
ところが、70年安保は、60年安保より過激でありながら、アメリカはまったく動揺していなかった。その運動の大勢が学生だったからだ。つまり、市民ではなかったから。
 
ムバラクは大統領選に出馬しない、大統領選挙を前倒しすると声明を発表し、デモを鎮圧しようとしているが、それは無理。市民が求めているは、制度の破壊と変更だ。市民が主役となる政権、政治を求めている。それが見えていないのは、かつて、東欧の治世者たちが、それが見えていなかったのと同じ。
 
だが、果たして、われらの国、日本の治世者、政治家や検察、警察といった国家権力に、それは見えているだろうか。
 
いや、この国の市民たちは、自分たちに政治や制度が変えられるという、アナーキーな市民の自覚はあるのだろうか。市民までもが、制度やシステムに依存し、縛られていては、その自覚もないだろう。