秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

孤独な心は人でしか温められない

渋谷から副都心線で千川へ。Oさんのお宅の50回忌の年回法要と追善法要の導師の役。よその家の法要でお経を上げさせていただいくのは、初めての体験。
 
Oさん一家、港区の赤坂に在住だったが、40年ほど前に千川に移転されたらしい。同じように2年前まで赤坂に在住で、いまは息子さんと千葉の市川に住むSさんの誘いで、こうした奉仕をさせていただくことになった。
 
面識はないOさん一家だったが、檜町小学校(現赤坂小学校)、赤阪中学校など、乃木神社界隈の話、赤阪塩野の茶菓子の話など、この辺界隈を生活の場にしていた人間同士の地元話ですぐに打ち解ける。
 
数年前は、2男2女の兄弟で、昔、自分たちが暮らしていた、赤阪界隈を歩いたことがあるらしい。すっかり変わってしまった町並みに驚いたという。しかし、小中学校の同級生の何人かは、まだ地元で店や商売をやっている人もいて、なつかしくもあったらしい。
 
青山、赤阪(檜町)、乃木坂、西麻布(龍土町、霞町)当たりには、こういう人たちが多い。東京オリンピックの頃の都市整備で家や土地を手放した方、バブル期の頃、土地や家屋のオーナーが私財を手放し、借地や借家住まいをしていた人たちが、地元を離れていったからだ。
 
その後の不景気、空白の10年という中で、親より上の世代から引き継いでいた資産をなくし、遠隔地に移り住んだ人もいる。
 
東京ミッドタウン、赤阪サカスなど都市開発が進んでから、一層この界隈も姿を変えた。一見ふるさとという風情とは遠いその光景。
 
しかし、そこにも、こうして、かつて住んだその街に郷愁と愛着を感じている人がいる。街の姿は変わってしまったけれど、まだ、かすかにつながっている人との記憶がそれをさせている。
 
だが、5年、10年と歳月が過ぎ、残されている人との記憶が失われ、薄らいでいくにつれ、ふるさととしての存在も、どこかに忘れ去られていくのだろう。
 
オレ自身、福岡のマンションがなくなり、いま福岡に帰るときがあっても、ホテル泊。福岡に居場所がない。人は、親がなくなり、兄弟姉妹も老いていけば、次第にふるさとの手がかかりがなくなっていくものなのだ。
 
オレは自ら好んで、福岡を出てきた人間だが、果たして自分の居場所は?と問われて、佐賀に住む姉と父、義理の兄と姉の家である福岡郊外の家、相模原にいるかみさんと息子といった手掛かりはあるものの、間違いなくここだと答えられる場所がない。
 
ふるさとや自分のいのちの根拠といえる場所を持たない人は、そんなふうにこの国に増え続けている。
 
そうした中に高齢者の孤独死の問題も、よろどころのない家庭を襲う虐待や暴力も、社会と隔絶した世界の孤独を生きる少年や青年たちのやり場のない怒りや憎悪も生まれているように思う。
 
何かの形で、たとえば、今回の御縁のように、同じブッティスト仲間というつながり、ふるさとを同じにする者同士といった、なにかのつながり、共同体を持たなければ、それはますます、この国に拡大し、孤独な心のあふれる、寒々とした社会になってしまうだろう。
 
人は人でしか、癒されないし、孤独な心は人でしか、温められない。