秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

セカンド・チャンス

自分を愛せない人は、人も愛せない。
 
自分をいとおしいと思えない人は、人にやさしくなれない。
 
自分を不幸だと思う人は、人を傷つけることに躊躇がない。
 
これらはよくいわれることだ。心理学的にいえば、承認(他者から認められ、受け入れられ、愛される)の経験や蓄積がないか、薄いと、こうした心情へと人を導いてしまう。
 
「しまう」というのは、その人を取り囲む幼少期の成育環境(これは食育を含め)、家庭環境、教育環境、人間関係によって、それがつくられるといって過言ではないから。
 
周囲が過剰に愛をそそぐのもいけないし、また、自立を促すといって、放任するのもよくない。大人の思い通りにしようと、意識するしないにかかわらず、威圧や権威、規則や暴力で従わせるのはもっとよくない。
 
最悪なのは、世間でいわれる「いい子」を評価の対象にし、他人と比較すること。なにかができるできないの知育や体育だけを評価の基準にすること。それらは、すべて、その人そのものの評価ではなく、蓋然性、属性によっている。
 
斎藤祐樹はすばらしい。浅田真央はよくやった。石川遼はすごい。という評価の基準が若い人、子どもの評価となるのも、こうした大人の心情からきている。すべて、「いい子」たちだからだ。
 
礼儀正しく、優秀な社会人並みのコミュニケーション能力を持ち、自己をみつめる確かな眼がある。他人を批判せず、周囲にやさしく、笑顔を忘れない。それでいて、自分の未熟さに涙し、悔しさを明日のバネにする。求道精神にあふれ、同時にスタイリッシュ。つまり、すべからく、美しい。
 
確かに、人としての美しさは大事だ。だが、それらがなくても、人は、生きていまあるということ、それ自体が美しいのだ。人それぞれに美しさがあるし、その美しさは人によって、あり方が違う。人は、ただ若いから美しいとは限らないように。
 
オレが世阿弥を学び、高く評価しているのは、その演技視点、演出視点はもちろんだが、美しさとは何かを深く探求し、年齢や外見といった表層を越えた美にたどりつこうという、人間のあり方そのものを問うているからなのだ。
 
それを過ぎゆく時間、難しく言えば、時間の不可逆性を越えて、描こうとしているところに、戦慄するような美を見ているからだ。それは、言い換えれば、宗教的人間愛によっている。(世阿弥の理解に仏教精神と和歌の理解は欠かせない)
 
昨日、TBSの報道特集で、「セカンド・チャンス」という全国規模のNPO団体が登場したニュースを伝えていた。かつて、少年院にいた青年たちが、自分の犯した罪を反省しながら、少しでも自分と同じ少年少女を生まないために、非行傾向にある子どもたちの支援、実際に犯罪をおかした子どもたちの心の回復に努力している。
 
たった一人の温かな声かけがあれば、たった一人でもいいから、善意の第三者の手助けがあれば、そうならなかったろう子どもたちがいる。青年たちがいる。
 
あるいは、このくらいのことで…と、大人が思う言動で、社会からはじきだされたと感じる子どもたちがいる。
 
それを弱い、本人の努力が足りないと突き放すことはだれでもできる。しかし、そうして突き放す大人や世間の壁が、いまの時代、ひとつではなく、あちこちにある。それは、ひとり一人の大人が感じる以上にあるのだ。
 
大人の保身や迎合、事なかれ主義、画一主義…。大人の思い込みだけが支配する世界で、子ども、あるいは、子どものような大人たちは、どこへ行こうとするのか。その批評として、セカンド・チャンスの出現を読めた大人は、報道する側を含め、どれほどいたのだろう。