秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

花冷え

真冬の寒さに逆戻り
 
梅や桜が開き始める頃は、「花冷え」の季節。急に冷え込むこともあるが、長雨と一緒というのはいただけないとだれもが思う。
 
季節というのはよくできているし、人の一生の彩りを見事に写す写絵だと新めて思う。
 
神宮の銀杏並木へ向かう青山霊園の桜は、つい数日前まで、芽吹いた程度だったのが、この間の暖かさで、小さな蕾が仄かに開いていた。春はもうまじかかというときに、蕾の開花に最後の試練を与えるように、この寒さが襲う。
 
だが、それをやな雨だ、寒さだとだけ思うか、開花をより一層華やかに演出するために、蕾にあえて厳しい試練を与えていると考えるかで、物事の見方、とらえ方が違ってくる。
 
春の雨はやさしいはずなのに、と思うか、春の雨の冷たさがきっともっと大きく花開けとエールを送ってくれていると捉えるかの違いだ。
 
オレの大好きな、マンション脇にそっと立つ、白木蓮は、ずいぶん深く、剪定されてしまって、今年は花が咲くのだろうかと思うほど、枝ぶりがよくない。それでも、幹から小さく伸びた枝に、必死で芽吹こうとしている。毎年、桜が散る頃に、香り高い、大きな花を咲かせる、あいつに会いたい。その期待が、その必死さゆえに、一層強くなる。
 
折々に季節の花を咲かせ、人を、生き物を、自然を楽しませる花々は、それぞれの美しさを持ち、心を和ませるが、そうした必死さの中で、美しさと和みを生み出しているのだ。
 
芽吹きの期待から、満開の美しさ、そして、雨に打たれ、風にさらせれ、やがて、朽ちて土に変える。そのすべてを人の眼にさらしながら。果てる姿があるからこそ、また、花は美しい。世阿弥いわく、「時分の花」。
 
人も同じ。自分のいのちを必死に燃やし、それぞれの花を咲かせ、やはり、朽ち果てるがゆえに、美しい。花の潔さとは、本当はそこにある。人の潔さもそこにある。
 
朽ち果てることを知った上で、いまを生きるか、そうではないかで、人の美しさも違ってくる、とオレは思う。花が姿だけでそれを示すように、その人の生きる姿、物言わぬ背中、手のシワ、顔に刻まれていくシワやシミ、その一つ一つが、実は、言葉よりも何よりも、人の美しさ、潔さを示す。
 
物を書くというのは、死者の目線でいまを見ることだとオレは思っている。オレが尊敬する作家たちは、いや一流といわれる作家たちは、それをくだらない心情ではなく、実に冷静に、ときには、冷淡に描いている。
 
その視点の取り方は、朽ちてゆく花を見捨てずにみつめ続けることと同じかもしれない。ただ、盛りの時期だけをめでるのではなく、汚れ、散り、土にまみれたその姿に、あの盛りの美しさを読み取ることなのかもしれない。
 
「花に恥をかかせなさんな」という、いい言葉を耳にしたことがある。おふくろが、よく口にした言葉だった。
 
部屋に生けた花が朽ちかけようとして、そのままにしておくことは、花に恥をかかせることになるという、実に心に染みる言葉だ。
 
盛りの内で、そのいのちを終わらせてやりなさい。そこにも、いのちへの思いやりとやさしさがある。枝や土から切り離され、自然の姿とは異なる異形のものとして、特異な美しさを楽しむために、自然の摂理に反して、意図して飾られた花は、自然の中で死ねないがゆえに、美しいままで終わらせよう。
 
そこにも、いのちのがどう終り、どう終るべきかの美しい思いやりと理解がある。