秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

無意識・無自覚な暴力

人は、本来、意図して人を傷つけることはできないようになっている。
 
他者への有形無形の暴力というのは、その大半が、無自覚、無意識にされているのだ。
 
たとえば、海兵隊員が執拗に体を鍛え、過酷な野営訓練を行い、敵に対して、人間的な感情を排して、殺害することができるようになるのは、そうした訓練によって、他者を傷つけることのできないようになっている、人間本来のスイッチをOFFにするからだ。
 
軍隊の訓練は、そのためにだけにあるといってもいい。
 
いまアメリカでアフガン、イラク帰還兵の犯罪が大きな社会問題になっているが、他者を傷つけることを当然としてしまったスイッチが、平時の世界に帰還しても、そのままになっているところに要因がある。
 
容易に他者を傷つけることができるようになってしまった兵士を、今度は、社会に適応するために、再び人を傷つけることができないように、スイッチをONにしなくてはならない。そのためのプログラムが社会にとっていかに重要かということに、やっとだが、アメリカは気づき始めている。
 
この世にある、他者への暴力、それが実際の暴力であるかどうかにかかわらず、言葉あれ、態度であれ、生まれているのは、だから、無意識、無自覚なもの。
 
だが、この無意識、無自覚な他者への暴力、あるいは、排除、無視ほど始末に悪いものはない。本人たちに明確な自覚がない分、自分たちが犯してる先入観や偏見、思い込みに気づけないからだ。
 
「この人は、こういう人だ」という決めつけは、とらえ方によって、それが洞察力のともなうものであれば、決めつけられた人間にとっても、なるほど…と同意できるが、おおよそ、的外れな指摘であった場合、それは、暴力にもなる。
 
そもそも、多様性と多面性を生きざるえない、社会の中で、そうした決めつけ自体、まったく人を理解する手段にも、方法にもならない。
 
あるとき母であっても、あるときは主婦であり、またあるときはパート労働者であり、妻であり、かつそれ以前にひとりの女性である。といった存在として人は生きている。そこに、ひとつの側面を見た理解を、すべての理解とするところに、傲慢さと愚かさがある。
 
しかし、他者に対して無自覚、無意識な人間は、その思い込みが実は人を深く傷つけていることに気づけない。
 
そうした社会、いわば、人間力の欠落した社会で、そこに警鐘を鳴らし、かつ自らその愚かさを生き、かつ他者もそこを生きるという中で、つながりを持つ、信頼関係を築くということの至難さは、容易ではない。
 
だが、その至難に取り組まなくては、おそらく人は本当の意味で、幸せをえることはできない。
 
昨日の通り魔事件もしかり、その前の事件もしかりだが、その姿は、われわれの社会が他者に対して、どれほど無自覚であるかを語っている。