秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

Norwegian Wood ノルウェイの森

久々にいい映画を観た。
 
 
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個人的に村上春樹の小説は、世間が騒ぐほど好きではない。寓話や隠喩に満ちた多くの小説と違い、60年代、70年代初頭を生きた若者を描くこのベタなリアリズム小説は、いまさらかと思うところもあり、微細にセックスと孤独を描く、青春小説の情緒感が好みではなかった。
 
村上春樹が登場して、小説の文体が変わった。確かに、その功績は大きい。
 
平易で、読みやすい文体。英語など外国語に翻訳するときに、訳しやすいセンテンス。文字離れ、読書離れをしつつあった、若い世代に、本を読むことの敷居を低くし、もしかしたら、自分にも小説が書けるのではないかという気持ちにさせた。
 
そこから、現代の才能ある若い作家の数人も登場している。
 
ベストセラー小説になる理由がそこにはある。もともと村上春樹という作家は、マスコミをよく知り、マーケティングもわかっている人。そのどこか戦略的なところが、秋元康と同じにおいがして、どうしても好きになれない。
 
また、文体やセンテンスの軽さが、オレ自身の好みではないということもある。三島由紀夫を翻訳するのと、村上春樹を翻訳するのとでは、翻訳者の文学的な力の差は歴然としている。翻訳者にその力を要求する文体を持った文学こそ、日本文学といえるものではないのか…などと時代錯誤なことをオレが考えているからだ。
 
ということをことわっているのは、オレが一読者、ファンとしてこの映画を観ようと思ったのではないことを前提としたいからだ。
 
10代、20代の男女をそのセックスによって微細に描き、セックスによっても満たされない孤独や葛藤を描くという手法は、オレにいわせれば、超古いし、くさくて、ベタ。村上自身が何かで語っているが、最後のリアリズム小説というくらい、いわゆるつまらない、ありがちな青春物語になってもおかしくない内容。
 
かつてのATGや日活ロマンポルノ残党たちが、インディーズでマスターベーションするようにつくっていた映画のいくつかになってもおかしくはなかった。
 
オレが、映画に期待していたのは、唯一、その原作のベタさを突き放せそうな外国人監督、しかも、余剰を徹底的に排除し、抑制した芝居によって、序曲をかなでるように、フィルム一枚一枚を丁寧に重ねる小津安二郎のつよい影響を受けた、トラン・アン・ユン監督の演出だった。
 
おそらく、日本人監督だったら、これほど、透明に、そして冷徹ともいえる目で、この時代、そして、そこにいきた、スノップな連中を描くことはできなかったと思う。
 
本来、ジョン・レノンが創作したこの映画の表題「Norwegian Wood」は、こじゃれた気取った北欧家具という意味。それを日本の翻訳者が誤訳した。その方がビートルズらしいと思ったのだろう。
 
原題に忠実なティストで映画化したのは、監督の才能。
 
それは、水原希子初音映莉子、そして、個人的にいつか仕事をしたいと前々から思っている、霧島れいかなど、女優陣のキャスティングに生きている。
 
余剰を排した、秀逸な映画。