秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

かたちだけの愛

平野啓一郎の『かたちだけの愛』を読む。
 
青山ブックセンターでサイン本を販売していて、当然のように購入した本。事故で左足を失った人気女優と商業デザイナーとの恋を軸に、平野らしく、主人公の幼児期、思春期の体験を振り返りながら、人が人を愛するということの意味や身体性の問題を提起している。
 
少年犯罪や動機不明の事件をとりあげ、いまの時代を生きる人々の空疎感を鋭く射抜いた、名作『決壊』とは、近くて遠い作品。
 
『決壊』のあと、今度は未来へつながるメッセージを本にしたいといっていた平野らしく、終幕は、そうした次への予感を共有しようという、不思議な温かさに溢れている。
 
しかし、婚活や合コンばやりのいまの世相の中で、あるいは、恋愛遊戯ともいっていいほど、男女がつながるということの意味が軽薄になった時代に、片足の喪失を通じて、心の喪失をみつめるという小説の軸は、やはり、平野らしい反社会のメッセージになっている。
 
セックスの現代的姿を簡潔でいながら、実に的確に描く文体は、やはり、すばらしい。
 
平野の著作の中でも、かなり読みやすい本だから、きっと、単なる恋愛本として若い人が手にとりやすいものにもなっている。映画化、テレビ化もしやすい、ドラマチックな展開にもなっている。
 
人を恋することに、人は、いま、それほどおびえない。<恋愛していないの?圧力>が
蔓延しているからだ。交際している異性がいないということは、いまどこかで、友人仲間の枠組みから、遅れている、かわいそうという定義に簡単にくくられる。
 
だから、それがどういう恋であっても、とりあえず、恋をしているのだという疑似的世界を人は求める。個が他とがつながることが表面的であるだけ、その圧力が強い。
 
そこには、セックスが比較的容易であること、風俗が疑似恋愛をうまく演出できるようになったことがある。
 
だが、それを愛へと育てることには、いま多くの人が臆病だ。本質的な何かで他と結びつかないとそれはできないし、本質的な何かで他とつながろうとして、裏切られたり、傷つくことが多いということも、人は知っている。
 
親や兄弟を含め、深く愛されたことがないということもあるし、深い愛があるゆえに、互いが傷つけ合うものだということをよく知っているからだ。
 
だから、かたちだけの愛を生き、それが自分というものの不確かさを突き付けられることにもなる。それは、夫婦であっても、恋人同士であっても。いや、長く共に時間を過ごした異性同士ほど、そうかもしれない。
 
平野の描写で、すばらしいなと思った箇所がある。太ももから切断した足の縫合箇所。端断(たんだん)という部分は、義足をつけることを考慮して、やわらい脂肪に覆われるように縫合される。
 
それは、おばあちゃんのおっぱいのようになるらしい。恋に落ちた男は、そのおばあちゃんのおっぱいになったような断端をいとしおしく思い、そこにキスをする。二人の愛が深まったとき、相手の女性も、そこに「いっぱいキスマークをつけて…」と応える。
 
肉体が老いても、それを越えられる愛なのかどうか。微妙な隠喩の中で、かたちだけの愛が、真実の愛に変わることができる。そう、平野は伝えようとしている。