秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

フランス議会ブブカを禁止する

人は、みな、それほど正しく生きられるのか…
 
この数年のテレビ報道をみていて、いつも思わされる。まるで、テレビ報道や報道バラエティが、この世の正義を代弁しているとでもいうように、底の浅い正義が連呼されている。
 
おそらく、そうした底の浅い正義を連呼すれば、視聴者はつくいてくると思いこんでいるし、実際、多くの視聴者が、底の浅い正義に同調し、ものによっては、正義の連呼に熱狂する。
 
マスコミが大衆の民意を形成し、マスコミの声が民意の代弁者のごとくふるまう。週刊誌の三面記事のようなネタで、人が裁かれ、人が社会から追放される。
 
多くの人々は、おまえを認めないぞと、スティグマを捺すことで、簡単に人を社会から追いやることができる。そうした社会にオレたちは生きている。
 
自分は正義をいきている。いまという時代ほど、正義へのこだわりが深い時代は、かつてない。
 
そして、正義というのは、自分の物差しの正しさを主張しているだけのことであって、その正義が、国や民族、宗教や言語、文化や精神史など、歴史的、民族的背景によって、大きくかわるものであるということを知らない時代も、かつてない。
 
だれもがこう思うはずだ。だれもがこう考えるはずだ。通りいっぺんの自分のこだわり、いわば心情が生む、正しくない、正しいによって、他者を裁断する。正義とは、実はそれほどに危ういもので、普遍性などない、半径3メートルの価値観にすぎないのだ。
 
法と道徳を混同するところに、こうした身勝手な正義が横行する。狭窄した視野が、ひとりの正義をあるとき社会正義にしてしまう。
 
視点をいくつも持つという訓練や教育ができていないから、こうしたことが起きる。多様な情報を吟味するというリテラシーがないから、こうしたことが起きる。情報の裏側を読むということができていないから、あらかさまに軽薄な正義がまかり通る。
 
一昨日のフランス議会で、公共施設でのブブカの禁止が賛成多数で可決された。自由と平等の精神、発祥の地。市民革命を実現した国で、平気でこうした宗教の自由、人権を奪う法律が生まれてしまうのだ。
 
フランス人のイスラム嫌いは歴史的な背景もあってのことだが、いかに心情から生まれる正義が危ういものかを、これは如実に示している。