記憶色の話
それが、墨が水に溶けるように、明け行く中、朝を予感させる、淡いブルーに染まっている…。
だれもいない、車も走らない、未明の道路には、音もなく、信号が点滅している。だれもいない電話ボックス。だれかが乗り捨てている自転車…。
というような心象風景をオレは、これまでのいくつかの映像作品の中で使っている。
高校の演劇部時代、男子は、照明のパートを任された。電気を扱うのと、高い所に昇っての作業があり、女子には危ないということがあった。
初めて照明のチーフになって、夕景をつくらなくてはいけなかった。オレは単純にいくつかのプラステートカラーシート(色をつけるシート)を選択し、照明プランをつくった。
ゲネプロを見にきてくれたOBにいわれた。
「お前は、夕陽をずっとみつめたことがあるのか?」
「夕陽は、いわゆる夕景の色という単純なものなのか?」
「お前は、夕陽を自分の眼で確かめたのか?」
オレのHPで、記憶色の話を書いたことがある。記憶色とは、印刷業界の言葉。
たとえば、桜の色を印刷するとき、優秀な職人は、実際の写真の桜の色に独特のアレンジをする。そのアレンジは、多くの人々が、これが桜色だと思い込んでいる、記憶の色に近づけるためだ。
プルーストの詩集『失われた時を求めて』の主人公は、たとえば、ラベンダーの香りにふれることで、遠い過去の記憶を呼び覚まし、その時間にトリップする。それをベケットは、記憶の誤謬によって歪曲された仮想なのだと批判した。
Today's ego is not Tomorrow's ego,Yesterday's ego is not Today's ego.
人は、記憶に依存している。そうしなければ、自己の同一性が維持できなるからだ。だから、昨日の自分と今日の自分は同じだと思いたい。今日の自分は、明日の自分と同一だとしたい。そのために、人は、実は、記憶を歪曲している。
そこに、桜色の記憶色のような現象が起きる。
夕陽の色といったとき、高校生のオレがそうしたように、夕陽色、橙の変化を想像する。しかし、実際に夕陽を見つめ続けると、朱に染まるまでに、紫、藍、青といった、多くの色彩のコントラストに遭遇する。
ひとつの記憶、ひとつの視点だけで、物をみることの怖さがここにある。それを知ってから、オレは朝の風景の色にもいろいろな色があることを知った。
そして、そのいろいろに織り成す色のコントラストの中に、音楽や詩や文学、そして、人の心象が描けるのだと思い、人の言葉にできない心象も、そうした風景の中にあるのだなと理解できるようなになった。
人が海を見たり、朝日や夕陽を見る。自然の色の変化と風の中に身をおくのは、閉塞した記憶色から自由になるためなのかもしれない。