秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

当たり前のことを当り前に

この猛暑続き、出張もあり、運動もしで、洗濯物があっという間にたまる。
 
10代の後半から30歳まで、貧乏なひとり暮しをやり、その中で、料理も掃除も洗濯も自分でやるようになった。10代の頃はたどたしかったろうが、毎日やっていれば、技能は向上する。
 
以来、女性に料理、掃除、洗濯で引けをとらないから、一緒にいる女性はやりにくい。その一方、台所に立つなど考えられないというご主人を持つ同級生たちからは、「一家に一台、秀嶋くんね」といわれる。
 
とはいえ、家事を多少なりともやる女性たちからは、一緒にいたら、きっと小言ばかりいわれ、うるさくて、面倒くさいとオレと一緒にいることは、やがられる
 
確かに、料理にしろ、掃除にしろ、洗濯にしろ、その人流というのがある。料理に使う調味料にせよ、掃除の習慣にせよ、洗剤にせよ、その人がいままでの生活経験の中で、これがいい、こういうやり方がいいというひとつの規範ができている。
 
家の中に、違う規範が二つあれば、もめるのは当然。嫁姑の揉め事の基本も生活のやり方の違いが原因になっていることは少なくない。
 
オレが子どもの頃は、自分のことは自分でしなさい!といつも叱られた。だからといって、すべてを子どもの頃から自分でやったわけではないが、自分の身の回りのことはできるだけ自分でやれるようにならなくてはと思わされた。
 
小学校、中学校の同級生の男子の中には、家の仕事の手伝いもやり、料理、掃除、洗濯もやる奴もいた。自分のことだけでなく、親の仕事の手伝いまでやっている。その姿に出会うと、いつもオレは、両親や姉からいわれている言葉を思い出し、恥かしい気持ちになった。
 
だから、オレなどまだまだといまでも思っている。それでもなんとか、一人でこの歳で身の回りのことができているのは、料理、掃除、洗濯は、心をつくる上で役に立つと思っているからだ。
 
ファーストフードやコンビニの食で過ごし、掃除はたまにしかやらない、洗濯物が溜まっている。そうした生活空間は人の心を写しているとオレは思う。
 
いくら外で仕事や人の付き合いが上手にやれていても、そうした生活空間に過ごしていれば、心が荒れる。仕事が超多忙とか、何かの事情で家のことができない場合、一時、そうした状態でも、心が荒れていなければ、きっと、片付けをやるし、元の生活に戻れる。
 
だが、心が荒れていると、なかなかそこには戻れない。一度、荒れた生活になってしまうと、人は弱いから、ますます荒れた生活になってしまう。結果、それではいい仕事はできないし、人とのいい付き合いもできない。
 
当たり前のことなのだ。その当たり前のことを毎日、たゆまず続けることが一番難しい。自分の気持ちが萎えたり、凹んだり、落ち込んだとき、家のことをきちんとやってみるといい。
 
普段より丁寧に掃除をやるというのもいい。普段手の届いていない場所にほこりやゴミがたまっているのを見ると、ふと、ああ、自分ではきちんとやっているつもりでも、まだまだ、心の隅にまで自分の眼は届いていなかったのだと反省させられたりもする。
 
事がうまくいかないときでも、部屋に戻り、そこがきちんと片付いていれば、明日もがんばろうという気持ちにもなれる。
 
強迫神経症のように、それに執拗にこだわるのはよくないし、自分流の整理整頓を人に押し付けるのはよくないが、自分の心を整え、振り返るために、だらだらした心を糾すために、当たり前のことを当たり前にやってみるのは、そう悪くない