秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

美しい人

身近な人が、何か社会に役立つことに取り組もう、人に役立つことをやろうと新たなことに挑戦する姿は観ていてすがすがしいし、とても美しいと思う。
 
社会や人に役立つというと、すごく知識や経験がいることにように思う人もいるだろう。自分のような平凡な人間にそんなことはとてもできないと最初からあきらめる人もいるだろう。暮らしが大変で、他人のことより、自分のことで精一杯で、そんなの無理!と怒る人、突っ張る人もいるかもしれない。
 
だが、人は、この世に生まれたときから、人の役立つことをしている。いのちを受けたということは、そのいのちを喜んでいる人がこの世には必ずいるのだ。
 
虐待をする親もいるけれど、大勢は、生まれることで、まず親を幸せにしている。もし親の愛情が歪なものだったとしても、成長して出会うさまざま人に何がしか影響を与え、自分がやるよきこと、あしきこと、いずれを通しても出会った人にいろいろな思いを投げかけることで、実は、役に立っている。
 
人はいろいろな人がいる。そのいろいろがあるから、また人は、自分をみつめ、自分の言動や考え方を振り返ることもできるのだ。
 
人に迷惑や苦しみを与える人でも、友人や異性と出会い、心を通わせることで、人を幸せにもできる。そして、また、自分を認めてもられる人と出会うことで、人は変れる。変ったことを喜んでくれる人が、この世には、必ずいる。
 
だから、この世にあるだれも、だれかの役に立っていない人はいないのだ。
 
つまりは、社会や人の役に立つことをすでに人は生まれながらにしている。それを自覚し、意識して他者や社会のために、もっとできることはないだろうか…。そう考え、行動するのは、だから、いまいる自分から、実は、それほど遠いことではない。
 
この人はそういう心根のある人だと思ったからだが、姫に加圧を通してもっといろいろな人の役立つことができるのではないかしらと、話したことがあった。「カントクはいってることと、やってることが違う!」と、牙をむくこともあるが、人のために何かをやるということでは、手話も勉強しているくらいだから、心の奥で共鳴している。
 
障害のある方たちの中には、パラリンピックを目指す人とか、そうではなくても使える身体を強化することで生活の質を上げたいと思っている人がいるのではないか。ならば、彼女の特技、才能をそうした人のために役立てることもできるような気がするのだが…。
 
姫はそれに挑戦しようとしているらしい。思ったら、気がついたら、すぐに行動する。彼女の行動力にはいつも脱帽する。自分の人生に実にアグレッシブル。オレが出会った頃、奴のことをタケノコと呼んだのは、そういう意味だ。
 
ストイックに何かに挑戦するのではなく、自分の世界の延長に何かに取り組む。自分が心地よいと思える心の動きに素直に取り組む。それが結果的にだれかに役立てばそれでいい。
 
女優の悠子が、オレの作品に出たいと思うのは、オレの仕事に社会や人の役に立とうという願いが感じられるからだといったことがある。それに比べ、自分のような人間には才能がないし、それができるような力はない…と続けた。
 
しかし、そうではない。女優であろうとするために生活を変え、自分を追い込むことをする。ためらわず、挑戦する。そこにすでに自分を人のために生かそうという思いが潜んでいる。それはオレにできることではなく、奴にしかできないことだ。
 
自分の心の動きに素直に取り組む。それが結果的にだれかの役に立つ。
 
なぜなら、楽をしようと思えば、いくらでもいろいろな楽になる逃げ道がある。それをしないで、悠子やMちゃんのように俳優や物書き・絵描きに取り組むのは、自分が有名になれれば、自分が豊かになれればいいからではない。
 
そういう心根で、悠子も、Mちゃんもやってはいない。だれかに認められ、ほめられ、そして、喜んでもらいたいからだ。それは、人に、社会に、役立ちたいからこそ、生まれている感情なのだ。その中で過不足ない生活ができれば、きっと幸せなはずだ。
 
自分の思いに忠実に、自分を裏切らない生活の中で、生きよう、目標へ向おうとすれば、そこには苦労がある。悩みもあるだろうし、自信をなくすこともある。56歳になったオレでもそれは同じだ。
 
だが、そんなときこそ、心を支えてくてるのは、自分が何かをやることで、喜ばれたいという人や社会に役立とうとする願いしかない。
 
その姿が人を美しくもし、輝いてみせる。オレのまわりには、美しい人がたくさんいる。