秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

日本人の矜持

人が何事か、生まれ変わろう、これまでと違う生き方をしようとすると、必ず試練や壁と出くわす。

それはそうだ。これまでと同じマニュアル、同じ価値、いままのルーティンワーク、つまり、経験則に乗って、あれこれ考えずに日々の生活をこなしていれば、物事を深く考える必要も、いままでの自分のあり方を内省することもいらない。

周囲との波風も立たないし、すべての人々、それぞれの既得権が守られるから、同じことを同じようにやろうとする人間に人々からの向かい風はこない。だから、大きな試練や壁と出会わなくてすむ。

もし、その安心の中でよぎるものがあるとすれば、変ろうと思いながら、あるいは、いまの仕事や生活のあり方はおかしいと感じながら、手間だとか、面倒だとか、煩わしいとか、うざいとか、かったるいとか、あるいは、損をすると、言い訳しながら、現状に甘んじてしまっている自分の中に湧き上がる虚しさや現状のルーティンの中で、傷ついたり、スポイルされる他者を見たり、知ったりしたとき、気の毒にという思いくらいだろう。

おしなべて、平時にあって、人は、自分が火の粉をかぶらないうちは、なんとか、気持ちのやり繰りを付けることもできるし、なんとはなしに日々の享楽に生きることができる。人の不幸には、その場限り、涙することもできる。

が、しかし。有事のときは、そうのんびりしてはいられない。生活が苦しくなれば、人はパニックになるし、火の粉が自分にかかり、将来が見えなくなると、どうしたものかと不安をいだかざるえない。このままでいいのかと思い、おずおずとながら、新しい一歩を踏み出さなくてはと考える。

で、踏み出しながら、ちょいと苦しいと、変るということの辛さ、熱さを知らないから、まるで幼児のように、熱いやかんに出した手をすっとひっこめる。そして、新しいことに挑戦するのは、あえてしなくても、ということになる。変る必要もないのではないかと、揺リ戻される。

いま、トヨタのリコール問題が話題になっている。社長はスタッフの前で涙を流し、あれはかわいそうだからと、政府の力でなにがしかの支援はできないのかと、国民的人気の柔ちゃんが国会へ出向く。見下げ果てたものだ。日本を代表するアスリートが自分をサポートしている企業の利益だけのために、自ら広告塔となって直談判する。

トヨタのリコール問題は、なぜ、アメリ自動車産業が破綻したいまになって、噴出しているのか。民主党政権になって、噴出しているのか。民主党普天間基地問題をはじめ、日米安保のあり方を見直そうとしているときに起きているのか。

そこをだれも見ようとしていない。アメリカの外交戦略や世界戦略の怖さをこの国の人間は、なぜもこうも知らないのだろう。隷従の65年間があるから、それは当然といえば、当然なのだが、自動車産業を基幹産業としていたアメリカが、トヨタの独走を許すほど、お人よしだと思うのか。

自公から、民主に代わり、いままでの日米のパラダイムになかった関係を日本主導でつくろうとしている行為に、それでよしとアメリカが黙っているとでも思っているのか。

トヨタのリコール問題は、単にトヨタの問題ではないのだ。日米関係の問題であり、新しき価値と新しき日本を作り出そう、アメリカからの真の独立を勝ち取ろうとする政権の間に、生まれた軋轢であり、アメリカの経済、外交戦略の標的なのだ。

逆をいえば、これまでのトヨタのやり方に対するアメリカの国民感情が、不況という状況の中で、憎悪の格好の対象になっている。しかし、同時に、北米社長のセクハラ事件など、トヨタという企業のあり方に対する不満の発露ともなっている。

自社の利益のために、それまでアメリカ人の誇りとしてあった、フォードやクライスラーの企業、従業員を駆逐し、寡占化を進めてきた。資本主義社会だから、当然その行為そのものが批判されていいわけはない。

が、しかし。トヨタアメリカ人の国民感情、誇り、矜持に対して、きちんとした手当てをいままでしてきたのか。安く、安全で、その土地の気候にあった車を効率よくつくるということだけに集中し、消費者の声や感情に目を向けてきたのか。人間に目を向けていたのか。

それをしていないから、公聴会の出席さえ当初は視野になかった。一兆円という利益を出しながら、派遣、パート労働によってその収益がもたらされている現実を振り返りもしなかった。秋葉原無差別殺傷事件の加藤が、トヨタの下請企業の派遣製造だったとわかると、一気に派遣労働を切った。

トヨタにならい、多くの大手製造業がそれにならった。それは、ひとりの人間をひとりの人間としてみていることになるのか。単に、給与が安く、解雇されれば、明日住む場所もないという人間の弱さを見透かして、あたかも物のように扱い、考えていたところに、加藤が生まれたのではなかったのか。

女工哀史の昔、豊田紡績の悲惨な女工の仕事を描いた、「野麦峠」という作品がある。あのトヨタの原点から、どれだけトヨタは脱皮できていたのか。

世界企業であり、環境企業であり、日本を代表する企業であれば、そうではない企業以上に、人間の生活や心に届く企業足らんとする矜持がなくてはならない。

それがないところで、いくらお詫び行脚をしたところで、それが他国の人々の心に届くだろうか。

自分たちが出会った、新しく転換できるチャンスと考え、多少の痛みや熱さがあっても、あえて、火中の栗を拾うという精神は、いつからこの国から消えたのだろう。

自公にNOといいながら、検察の捜査、マスコミの情報操作に踊らされ、民主党は政治と金に汚れていると判で押したような非難ばかりをし、自分たちがあえて選んだ政権を育てよう、叱咤し、成長させようという声が沸きあがらない。

一度出した手をひっこめ、またぞろ地方選挙で自公を選択する。

民主党に問題がないといっているのではない。それは自公に問題があったと同じだろうといっているのだ。

ただ、熱さから手をひっこめ、揺り戻しをすれば、この国はよくなるのか。この国は変るのか。人が人として、大事にされる社会が生まれるとでもいうのか。

かつて、松下幸之助本田宗一郎が目指した、日本人の矜持はどこにいった。