花の色は
この間、京都に帰省していた京女優のKさんから、「お見せしたいものがあります…」という連絡を受けていた。
代官屋敷か、討ち入りされる吉良上野介の家のような、はたまた、水戸黄門に必ず登場する、悪家老の屋敷のような(笑)Kさんの実家の、別棟の自宅で、発見したらしい。
扶桑社から出ている京都の春、桜紹介のムック本で、京都の古い家屋とそこに暮す、コテコテ京都人の特集などもあり、企画も手伝った関係で、やはり着物姿が板に付いた母君とKさんの2ショット写真と紹介記事も掲載されている。
それもさることながら、三島由紀夫、萩原朔太郎、梶井基次郎といった、オレにははずせない作家の桜についての語りが、京都の桜の風景、小説や作家の背景とともに綴られている。「お好きやろ、思うて…」。なるほど、オレのど真ん中。
村娘Rといい、京女優のKさんといい、最近、会ってまもない女性に、完全に、オレは読まれてしまっている…。
三島由紀夫の章に嵐山の山桜が掲載されていたのだが、京都では、ある人のことを「山桜やなぁ…」と呼ぶという。
このクイズ、相当の京都通でないとわからない。桜の華やかさにかけて、山に咲く野趣あふれた桜と、褒め言葉の意味か、ちょい京都らしく、花はあるが、田舎くさいと揶揄した言い方なのか、というのがオレの答え。
だが、そんなに文学的ではなかった。山桜は、桜が咲いているうちに新芽が芽吹くらしい。それで、出っ歯の人をそう呼ぶそうな。これには、参ったし、笑った。
そんなこんなを、オレが18歳の頃から通っていると錯覚していた、表参道の大坊珈琲店で語る。大坊さんと、30年以上前、どうしてこの店をオレが知ったのかを話していると、それがオレの記憶違いで、浪人していたときか、上京して1年前目くらいのことだとわかる。人の記憶はこうもいい加減だ。
だが、オレがこの店を青山村の茶室という意味が、Kさんには合点がいったよう。京都の寺で、おうすをいただき、ぼんやり庭を眺めているとあっという間に時間が過ぎる。たおやかで、ゆっくりした時の流れに身を置いているのに、1分が10分にもなり、10分だと思っている時間が1時間にもなっていることがある。
仕事の合間にちょっと立ち寄った寺で、そうした経験をオレは何度もした。寺めぐりなどと、気張らなくても、そうした時空を寺は持っている。いわゆる、茶の湯の精神と同じものだ。それと同じものがこの店にはある。
京女優のKさんを大坊さんに紹介して、真冬の寒さの中、徒歩で、青山村の元村長、焼鳥Yoshiのおやじさんの店へ。一応電話を入れたのだが、客はだれもおらず、のんびり熱燗で身体を温める。気づかなかったが、Kさん、強い。そのうち、気分は、京都の先斗町。目の前に着物の京都弁があっては、つい錯覚する。
温まったところで、この間、酔って、村娘Rをいじめまくったらしい(?)ハンナのばばあの店へ。
Kさん、三年前に某テレビ局の知人に、入りたいがひとりでは入りにくいからと同伴を頼まれ立ち寄っている。近い記憶は忘れてしまうばばあだが、遠い記憶はよく覚えている。Kさんに見覚えがあった。着物の若い女性だから印象は強かっただろう。
いつしか、村娘にならって、代官所の娘とKさんを呼ぶ。「ちょっとなごう、あらしまへん?」。確かに。京女でいいか…。
奇遇だが、神楽坂に住む京女、週末はゆえあって、別のところで過ごすそうだが、それがなんと、村娘Rの住む場所。着物姿で自転車に乗り、近所に買い物にもいくそうな。この二人、どこかですれ違っているかもしれない。
見た目の雰囲気は違うが、二人とも、いまどき珍しく、ちょい古い日本の女のよさを持っている。きっと縁あって、出会っているのだろう。
村娘をボコボコにしているオレだが、最近のメールのやりとりで、劣勢に立たされている。村娘から、この間ばばあからもらったエコバックの色がど真ん中で、超うれしかったと御礼をいってくれと指令まで出されていて、教育的指導を受けないために、それをばばあに伝えて、店を出る。
コレドに立ち寄りそうな雰囲気の京女を姿が消えるまで見送り、別れる。そこそこ飲んでいるし、着物だから、お遊びしないでまっすぐ帰りな。そんなことを思うのは、オレも単に気のいいオヤジの証拠だ。
写真は、お借りした本。帰路、乃木坂には、寒椿もあれば、桜も、つつじもある。そして、オレの大好きな白木蓮が、一本、艶やかに、そっとあると、花談義。
「花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」の小町の和歌が、ふと浮ぶ。
オヤジならでは。
代官屋敷か、討ち入りされる吉良上野介の家のような、はたまた、水戸黄門に必ず登場する、悪家老の屋敷のような(笑)Kさんの実家の、別棟の自宅で、発見したらしい。
扶桑社から出ている京都の春、桜紹介のムック本で、京都の古い家屋とそこに暮す、コテコテ京都人の特集などもあり、企画も手伝った関係で、やはり着物姿が板に付いた母君とKさんの2ショット写真と紹介記事も掲載されている。
それもさることながら、三島由紀夫、萩原朔太郎、梶井基次郎といった、オレにははずせない作家の桜についての語りが、京都の桜の風景、小説や作家の背景とともに綴られている。「お好きやろ、思うて…」。なるほど、オレのど真ん中。
村娘Rといい、京女優のKさんといい、最近、会ってまもない女性に、完全に、オレは読まれてしまっている…。
三島由紀夫の章に嵐山の山桜が掲載されていたのだが、京都では、ある人のことを「山桜やなぁ…」と呼ぶという。
このクイズ、相当の京都通でないとわからない。桜の華やかさにかけて、山に咲く野趣あふれた桜と、褒め言葉の意味か、ちょい京都らしく、花はあるが、田舎くさいと揶揄した言い方なのか、というのがオレの答え。
だが、そんなに文学的ではなかった。山桜は、桜が咲いているうちに新芽が芽吹くらしい。それで、出っ歯の人をそう呼ぶそうな。これには、参ったし、笑った。
そんなこんなを、オレが18歳の頃から通っていると錯覚していた、表参道の大坊珈琲店で語る。大坊さんと、30年以上前、どうしてこの店をオレが知ったのかを話していると、それがオレの記憶違いで、浪人していたときか、上京して1年前目くらいのことだとわかる。人の記憶はこうもいい加減だ。
だが、オレがこの店を青山村の茶室という意味が、Kさんには合点がいったよう。京都の寺で、おうすをいただき、ぼんやり庭を眺めているとあっという間に時間が過ぎる。たおやかで、ゆっくりした時の流れに身を置いているのに、1分が10分にもなり、10分だと思っている時間が1時間にもなっていることがある。
仕事の合間にちょっと立ち寄った寺で、そうした経験をオレは何度もした。寺めぐりなどと、気張らなくても、そうした時空を寺は持っている。いわゆる、茶の湯の精神と同じものだ。それと同じものがこの店にはある。
京女優のKさんを大坊さんに紹介して、真冬の寒さの中、徒歩で、青山村の元村長、焼鳥Yoshiのおやじさんの店へ。一応電話を入れたのだが、客はだれもおらず、のんびり熱燗で身体を温める。気づかなかったが、Kさん、強い。そのうち、気分は、京都の先斗町。目の前に着物の京都弁があっては、つい錯覚する。
温まったところで、この間、酔って、村娘Rをいじめまくったらしい(?)ハンナのばばあの店へ。
Kさん、三年前に某テレビ局の知人に、入りたいがひとりでは入りにくいからと同伴を頼まれ立ち寄っている。近い記憶は忘れてしまうばばあだが、遠い記憶はよく覚えている。Kさんに見覚えがあった。着物の若い女性だから印象は強かっただろう。
いつしか、村娘にならって、代官所の娘とKさんを呼ぶ。「ちょっとなごう、あらしまへん?」。確かに。京女でいいか…。
奇遇だが、神楽坂に住む京女、週末はゆえあって、別のところで過ごすそうだが、それがなんと、村娘Rの住む場所。着物姿で自転車に乗り、近所に買い物にもいくそうな。この二人、どこかですれ違っているかもしれない。
見た目の雰囲気は違うが、二人とも、いまどき珍しく、ちょい古い日本の女のよさを持っている。きっと縁あって、出会っているのだろう。
村娘をボコボコにしているオレだが、最近のメールのやりとりで、劣勢に立たされている。村娘から、この間ばばあからもらったエコバックの色がど真ん中で、超うれしかったと御礼をいってくれと指令まで出されていて、教育的指導を受けないために、それをばばあに伝えて、店を出る。
コレドに立ち寄りそうな雰囲気の京女を姿が消えるまで見送り、別れる。そこそこ飲んでいるし、着物だから、お遊びしないでまっすぐ帰りな。そんなことを思うのは、オレも単に気のいいオヤジの証拠だ。
写真は、お借りした本。帰路、乃木坂には、寒椿もあれば、桜も、つつじもある。そして、オレの大好きな白木蓮が、一本、艶やかに、そっとあると、花談義。
「花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」の小町の和歌が、ふと浮ぶ。
オヤジならでは。