秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

奇遇の再会

早朝からのボランティアの集まりに、自転車ではなく、タクシーを飛ばす。イベントの司会を頼まれてしまって、雨天自転車を飛ばす服装でいけなかった。

昼過ぎには雨も小降りになり、帰路は徒歩。芝の会場までは、乃木坂からたまに歩く。天気のいい日は自転車だが、芝公園のあたりにくると快晴の空に浮ぶ東京タワーがくっきり見えて、実に気持ちいい。

数週間前からわかってはいたが、実に奇遇なことに、たまたま講演にこられていたのが、かつて「生きる力を育む教育シンポジュウム」を一緒にやっていた、K学園のMさん。当時は、事務局長だったが、数年前から常務理事に出世した。オレの企画をおもしろがってくれて、十年に亙り、スポンサードしてくれた人。

Mさんの厚情がなかったら、オレが宮台真司と交流を深めることも、当時文科省の官僚だった寺脇研斎藤環といった連中と親交を持つこも、深めることもできなかった。大阪毎日新聞オーバルホールや新宿文化センターでの講演などもやれていなかったと思う。

また、そのステージがあったればこそ、社会問題や教育に一家言ある人間と知れ、酒豪編集者Rの元上司や硬派な出版界の連中、大日向雅美や上田紀行宮崎学といった識者ともより深く関わるようになったし、東映の仕事をすんなりやれたともいえるのだ。

言い方は的確ではないが、オレが遊べる場と費用を提供してもらえたことで、オレは思いのままにシンポやWEBで、宮台、斎藤、尾木直樹といった識者たちと変革のメッセージを社会にぶつけることができ、それをひとつの財産とすることができた。

出会った頃は、オレもまだ40代前半で、Mさんも50代中頃だった。それが、Mさんはもう64歳になったという。あまりに濃密な十年だったから、それほど時間が経っているような気がしていない。

オレとの親交を披露する場ではなかったのだが、講演の端々に、オレの名を出してくれたものだから、オレの実業や生業を知らない方から、「あなたは司会でしょ? なのに、M講師さんは、どうしてあなたのことを先生と呼んでいるの?」などと、あらぬ疑惑を抱かれてしまった。

普段、こうした集まりで自分がどういうことをやってきたかを詳しく話したことはない。ボランティアの集まりで、それは意味のない、属性に過ぎないこととオレは思っているから。また、オレの経歴をつまびらかに知られて、遠慮されたりするのも、気を遣われるのも、オレの本意ではない。ただのひとりのボランティアでいいのだ。

久しぶりとはいえ、あれこれ行事の進行があって、立ち話くらいしかできなかったが、相変らずの人柄に、ああ、この人だから、オレにあれだけ好き勝手なことをやらしてくれたのだなと、つくづく思う。

非礼の限りで、映画の仕事が忙しくなってからは、ほとんど連絡もとっていなかったが、改めて、オレを生かし、育ててくれた方と出会い、自分の非礼と感謝の足りなさに気づかされる。

Mさんは、オレと同じように夫婦の問題であれこれあり、それを社会的にこっぴどくパッシングされた経験をもっている。それでも、新しく出会った女性への愛を貫きとおした。外見からは、想像もつかないのだが、親しくなってから、互いの生い立ちやいま抱えている問題などを酒を酌み交わしながら、ずいぶん語り合ったのを覚えている。

映画の企画の実現のために、だれもが知ってる業界大手の低価格イタリア料理店をチェーン展開する会社まで同行してくれて、高校の同級生で、Mさんの親友でもある社長を紹介してくれたこともある。

なにかにつけ、気にかけてもらい、たぶん、期待もしてもらった。

シンポは残念ながら十年で終り、学園長が変ったことで学園の方針も変り、結局、オレはほかの表現の場を求めて、社会教育、人権の映画の世界に活路を見出していった。そんなこんなで、交流もなくなっていた。

おそらく最後に会ったのは、京都の国際会議の折だから、もう三年ほど前になる。そのときも時間がなく、酒を酌み交わすこともできなかったが、互いにもっと歳をとってしまう前に、また、ゆっくり一献傾けられたらと思う。

事務所を移転し、この変化の年のはじめに、Mさんと再会する。いままで感謝の足りなかった自分を、また改めて、悟らされた昨日。