秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

当たり前だのクラッカー

昨日、藤田まことが亡くなった。

どなたかが逝去すると、その人がどういう人となりであったかを振りかえるというのは、世の常識。それは、故人を悼み、表敬する意味も込められているから否定はしない。

しかし、いまは、表面的に、清き思い出としてしか、語られなくなった高度成長期の現実を、ランドセルをかついだ一人の少年として、のぞき見てしまったオレには、それとは別の感慨の方が深い。

テレビが登場し、国民に普及した当時、テレビは最大の身近な娯楽だった。また、まだ、放送局も番組も少なく、いまのような多チャンネルの24時間放送が流れていない時代。限られた娯楽番組しかないから、そこにどっと視聴者がチャンネルを合わせる。視聴率40%や50%はざらな時代だ。

そうした中で、国民には共通の話題、共通の笑い、共通の情報がもたらされた。

ある意味、戦後復興期を経て、朝鮮戦争で敗戦のどん底から這い上がり、高度成長に入る入り口辺り、つまり、昭和35年前後にくると、戦前から庶民生活を支えていた、日本的共同体社会が次第に壊れ始めていた。

戦前の町会、向こう三軒両隣、村集合体の共同体意識が、地方からの子どもたちの集団就職、また、東京を中心にした支店、営業所の地方拡大で、人々の流動性が高くなり、薄れていった。その結果、人と人のつながりの基盤が希薄になってくる。映画フラガールの背景になった炭鉱共同体もこの頃、終わる。

それを埋めるように、人々の共同体意識の代替の役割を果たしたのが当時のテレビなのだ。

子どもたちは、ナショナルキッド七色仮面月光仮面、少年シェット、鉄人28号、少年探偵団、鉄腕アトム、スーパージェッターといったテレビ番組の話題を学校で共有することで、仲間との同期性を確認できた。

大人たちは、ただいま11人、7人の孫、咲子さんちょっと、サザエさんといったホームドラマで家族同士の情報を共有し、NHKニュース、野球中継といったものを通して、企業社会の中で生きる者同士の共有信号を確認した。

家族自体の地域的な繋がりや生活の場での直接の人とのふれあいが希薄でも、テレビを通じてその埋め合わせができたのだ。自分はひとりではない、孤立していない、同じ考え、同じ枠組みの中に居場所がある、ということを実感することができた。

しかし、高度情報化時代が到来し、情報ツールがインターネットを始め、多様性に満ちてくれると、テレビが果たしてきた、オレは、私は、ここにいるという実感を補完するものがなくなっていく。

みんなが同じようにテレビ画面に向かうことはなくなり、家族自体もバラバラの情報ツールの中を生き、社会の人々も多様性という海の中で、いわゆる自分流というカスタマイズされた個々のツールを選択的に生きるようになった。

つまり、自分はひとりではない、孤立していない、同じ考え、同じ枠組みの中に居場所がある、ということを実感できなくなったのだ。

もちろん、それは、テレビの役割、社会的使命が変ったからだけではないが、少なくとも、その中心軸にテレビはあったのだ。

当時、大阪に本店を置く、前田クラッカーが、藤田まこと白木みのる主演の30分のコメディ番組「てなもんや三度笠」で、全国だれも知らないものはいなくなった。

オレの家でもオヤジが早く家に帰った日は、家族でそれを観た。まだ30代中ば過ぎだったオヤジは、夏、上下ステテコ姿で、よく、オレや姉の前で、藤田まことの名ゼリフ「当たり、前田のクラッカー!」というのを、ポーズをまねでよくやった。

藤田まこと同様、世代の割りに身長が高く、細身のオヤジのそれは、そっくりで、おふくろもオレも姉も、何度も笑い転げた記憶がある。

そして、その名ゼリフも、家族での物真似の話題は、家庭ばかりでなく、隣近所でも学校でも職場でも話題にすることができたのだ。

オレはそのことをなつかしいと思うし、失われていく共同体の中で、テレビという媒体を<信用>して、それを代替としながら、人々との絆をつなごうとしていた、当時の日本人を心から美しいと思う。

だが、それは、あのアホな映画、「三丁目の夕陽」のようなノスタルジックな感慨ではない。

そうした時代を森繁久弥同様、テレビで牽引してきた藤田まことの、最後の出演映画は、オレがHPで絶賛した、「明日への遺言」になった。

敗戦国といえど、「日本人が日本人としての矜持を失っては、戦後の復興はありえない」。そう頑なに信じ、アメリカの無差別爆撃、広島・長崎の原爆投下をジュネーブ協定違反であると鋭く糾弾した、実在の中将の物語だ。

「当たり前田のクラッカー!」と茶の間を笑わせた男の中には、戦死した兄への思いがあった。当時の人々の多くに、親兄弟、友人、知人、仲間を戦争で失った心の傷と記憶があった。それを背景にしながら、その痛みを抱きながら、日本人は団結できなければと考えたのだ。

失われゆく共同体の中で、それをした人たちがいる。藤田まことが、最後の映画に「明日への遺言」を残したのは、それだけの意味があると、オレは確信している。

そのことの方が、感慨深い。