体験発表
昨日と今日は、自主制作作品の撮影段取りでバタバタの中、ボランティアの勉強会。
昨日、時間をまちがえて、早朝に起きて、集合時間が10時だったのに気づく。台本のカット割と香盤表を考えていると、あっちの世界へ脳が飛んでいってしまういつもの癖。
春めきはじめた、朝の空気の中、自転車を走らせる。とはいえ、やはり寒い。実は、昨日の勉強会は失礼してもよかったのだが、これから撮影に入る前で、これからご無沙汰が多くなるので、あえて、参加した。
だが、参加してよかったと、チーム討論のあとの、体験発表を聞いていて、つくづく思った。
足腰が弱くなり、すっかり引きこもり状態で、身の回りのことも投げやりになっていた高齢者の方を、ずっと心配してサポートしてきた方がこんな報告をした。
体力も気力もなくしていたその方が、ある日、料理もしなくなっていたのに、煮物をつくっている。聞くと、老老介護状態にある近所の方にお分けするためだった。その御宅に持っていくと、おいしいとすごく喜んでもらい、では、大根のスープなら、のどにつかえなくて食べ易いだろうと、持っていく。
気づけば、毎日のように料理をし、その御宅に持っていっている。自分のためには料理も面倒だと、投げやりになったいたその方が、人の喜ぶ顔が見たくで、いつのまにか料理をしている。
そうこうしているうち、知らず知らずに、体力も気力も衰えていたその本人に元気が出た。自分が人に役立つことができるのだと気づいたとき、その方に生きる気力が戻ってきたのだ。
このままでは、痴呆にもなりかねない。その方のことを本気で心配していた、ボランティの中年の女性は、その姿に心を打たれ、よかったと感動した。それを涙ながらに報告された。その女性の人を思う思いが逆に胸に迫った。
マザーテレサの言葉が頭によみがえる。「この人たちは、貧しく、病気だから、苦しいのではありません。貧しく、病気であるがゆえに、だれからも必要とされていないことが、苦しく、辛いのです…」。死に行く人の家で、取材者にそう答えた、テレサ。まさに、人は人の役に立ってこそ、生きている実感がえられる。それによって、自分という人間を認め、愛されてこそ、幸せを実感できる。
印象に残った、もう一人の方は、ご自分がなぜ活動に取り組んでいるかを話された。
ご主人がアルツハイマー病になり、毎日、毎夜、布団への入り方がわからない。夜、トイレに立って、戻ってくると、じっと、ベットの前に立ちつくす。その度に、仕事で疲れた身体で目を覚まし、また、布団の入り方を教える。
そんな生活が続く中、お嬢さんが末期の乳がん。余命は半年といわれながら、宣告されてから8ヶ月のいまも存命だ。スポーツインストラクターの仕事を回りの理解をえながら、まだ続けている。しかし、体調が悪くなると、その方は看病にいく。
なんで、自分だけが…。そう思ったこともあったに違いない。泣いても泣ききれない、やるせない思いに押し潰されそうになったこともあるだろう。しかし、その方は、気づいたという。アルツハイマーのご主人が、一つ、介護をするたびに、ありがとうと、いってくれる。何もできないが、何か手伝おうかと声をかけてくれる。
そのことが、ありがたく、うれしいと思える。その気持ちに、毎日、何回も出会う。たった一言のありがとうを、こんなに感謝し、うれしく思える自分は、なんて幸せなのだろうと。
もうわずかしか残されていない娘さんとの時間を、本当に一分一秒、もったいない、いまこうして話ができることがありがたい、そして、娘さん自身の夢だったインストラクターの仕事をまわりの人々に支えられて続けられる、娘であってくれて、ありがたい…。
おそらく、オレたちが、普段の生活の中で、感謝や思いをこめて、言葉にしている、それらの一つひとつが、きっと、その方には、幾倍も深く、幾倍もありがたいのだ。
いまある時間はずっと続くと思い、親子、夫婦、恋人、友人同士の中で、オレたちは平気で諍いを起こし、嘘をつく。自分の素直な気持ちを伝えられず、自分の我にとらわえれ、自分に執着し、何でオレ、何で私のいうとおりにならないのだと、相手ばかりを責める。
だが、もう明日はわからない、明後日はないかもしれない。そう思ったとき、自分の我より、相手がいままで自分の側にいてくれたこと、相手が自分とともに生きてくれたこと、それ以上のありがたさはないのではないだろうか。
ふわふわと、さだかな目標や願いもなく、毎日を送ることが、いかに、せっかくもらったいのちの時間を無駄にしていることに気づくのではないだろうか。
我を、自分の都合を捨てるということは、確かになかなかできない。しかし、こうした人、いろいろな人と出会い、自分を高める努力を自ら求めなければ、この話にも、オレは出会えなかったろう。
そのことを、オレはまた、ありがたいと、心から思う。
昨日、時間をまちがえて、早朝に起きて、集合時間が10時だったのに気づく。台本のカット割と香盤表を考えていると、あっちの世界へ脳が飛んでいってしまういつもの癖。
春めきはじめた、朝の空気の中、自転車を走らせる。とはいえ、やはり寒い。実は、昨日の勉強会は失礼してもよかったのだが、これから撮影に入る前で、これからご無沙汰が多くなるので、あえて、参加した。
だが、参加してよかったと、チーム討論のあとの、体験発表を聞いていて、つくづく思った。
足腰が弱くなり、すっかり引きこもり状態で、身の回りのことも投げやりになっていた高齢者の方を、ずっと心配してサポートしてきた方がこんな報告をした。
体力も気力もなくしていたその方が、ある日、料理もしなくなっていたのに、煮物をつくっている。聞くと、老老介護状態にある近所の方にお分けするためだった。その御宅に持っていくと、おいしいとすごく喜んでもらい、では、大根のスープなら、のどにつかえなくて食べ易いだろうと、持っていく。
気づけば、毎日のように料理をし、その御宅に持っていっている。自分のためには料理も面倒だと、投げやりになったいたその方が、人の喜ぶ顔が見たくで、いつのまにか料理をしている。
そうこうしているうち、知らず知らずに、体力も気力も衰えていたその本人に元気が出た。自分が人に役立つことができるのだと気づいたとき、その方に生きる気力が戻ってきたのだ。
このままでは、痴呆にもなりかねない。その方のことを本気で心配していた、ボランティの中年の女性は、その姿に心を打たれ、よかったと感動した。それを涙ながらに報告された。その女性の人を思う思いが逆に胸に迫った。
マザーテレサの言葉が頭によみがえる。「この人たちは、貧しく、病気だから、苦しいのではありません。貧しく、病気であるがゆえに、だれからも必要とされていないことが、苦しく、辛いのです…」。死に行く人の家で、取材者にそう答えた、テレサ。まさに、人は人の役に立ってこそ、生きている実感がえられる。それによって、自分という人間を認め、愛されてこそ、幸せを実感できる。
印象に残った、もう一人の方は、ご自分がなぜ活動に取り組んでいるかを話された。
ご主人がアルツハイマー病になり、毎日、毎夜、布団への入り方がわからない。夜、トイレに立って、戻ってくると、じっと、ベットの前に立ちつくす。その度に、仕事で疲れた身体で目を覚まし、また、布団の入り方を教える。
そんな生活が続く中、お嬢さんが末期の乳がん。余命は半年といわれながら、宣告されてから8ヶ月のいまも存命だ。スポーツインストラクターの仕事を回りの理解をえながら、まだ続けている。しかし、体調が悪くなると、その方は看病にいく。
なんで、自分だけが…。そう思ったこともあったに違いない。泣いても泣ききれない、やるせない思いに押し潰されそうになったこともあるだろう。しかし、その方は、気づいたという。アルツハイマーのご主人が、一つ、介護をするたびに、ありがとうと、いってくれる。何もできないが、何か手伝おうかと声をかけてくれる。
そのことが、ありがたく、うれしいと思える。その気持ちに、毎日、何回も出会う。たった一言のありがとうを、こんなに感謝し、うれしく思える自分は、なんて幸せなのだろうと。
もうわずかしか残されていない娘さんとの時間を、本当に一分一秒、もったいない、いまこうして話ができることがありがたい、そして、娘さん自身の夢だったインストラクターの仕事をまわりの人々に支えられて続けられる、娘であってくれて、ありがたい…。
おそらく、オレたちが、普段の生活の中で、感謝や思いをこめて、言葉にしている、それらの一つひとつが、きっと、その方には、幾倍も深く、幾倍もありがたいのだ。
いまある時間はずっと続くと思い、親子、夫婦、恋人、友人同士の中で、オレたちは平気で諍いを起こし、嘘をつく。自分の素直な気持ちを伝えられず、自分の我にとらわえれ、自分に執着し、何でオレ、何で私のいうとおりにならないのだと、相手ばかりを責める。
だが、もう明日はわからない、明後日はないかもしれない。そう思ったとき、自分の我より、相手がいままで自分の側にいてくれたこと、相手が自分とともに生きてくれたこと、それ以上のありがたさはないのではないだろうか。
ふわふわと、さだかな目標や願いもなく、毎日を送ることが、いかに、せっかくもらったいのちの時間を無駄にしていることに気づくのではないだろうか。
我を、自分の都合を捨てるということは、確かになかなかできない。しかし、こうした人、いろいろな人と出会い、自分を高める努力を自ら求めなければ、この話にも、オレは出会えなかったろう。
そのことを、オレはまた、ありがたいと、心から思う。