秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ソンチョウさん

加圧トレーニングのRさん、京女優のKさんから御礼のメールをもらう。

すっかり、呼び名が、「青山村の村長さん」に、なっている。あくまで、たとえだったのだが…。ま、それで、親しみをこめてもらっているのは、ありがたいので、よしとするか…。

などと、考えつつも、しかし、きっと、これから、顔をあわせるたびに、村長さ~ん、と呼ばれるのだろうなと、悪い予感がする。村長さ~ん、は、まだいい。

ソンチョウさ~ん、となると、どこかポリネシアの島か、東南アジアのデルタ地帯か、アマゾンの秘境にいるソンチョウのような気になり、それなりのメイクと衣裳が必要になるのでは…。あるいは、ひよっこりひょうたん島のドン・ガバチョ風に衣裳を誂えなくては…。と、考えるオレは、はやり、ソンチョウなのだろうか…。

社会学の世界で、自己の存在規定が不明な社会では、アノミー的自殺が増大するという考え方がある。フランス系ユダヤ人の社会学者ディルケームが唱えた、アノミー理論だ。

物にあふれ、生活の豊かさが保証されていながら、社会規範や秩序が緩くなると、自己を支える基盤が脆弱になり、自分が生きてここにあるという存在の実感が薄れ、それが生きていてもしょうがないという心情を人々に抱かせるというもの。

実存主義哲学では、固有の証明としての「私」という存在が、私である社会的必要性や意味性を失うと、だれでもいい、だれかとして、「私」が喪失し、入れ替え可能性の中で、本来あるべき、「私」が無限に拡大してしまうと、考える。

それを社会学に引き寄せると、ゆえに、豊かさの中でも自殺は増大するという結論に至る。

それは、「私」とは何かの追求に人々が疲れ切って、精魂使い果たしてしまうからだなのだ。自分は、監督である。自分は、劇作家である。自分は演出家である。あるいは、自分は社長である。自分は男性である。という存在は、実は、どこにも証明がない。

監督であるというのは、どういうことを監督というのか。劇作家とはどういう人を劇作家というのか。俳優というのは、どういう人を俳優というのか。

アルバイトをやり、それなりの収入を得て、生活の基盤はそこにありながら、小劇場の舞台では、俳優であったり、劇作家であったり、演出家であったりする。それを、その人は俳優であるといえるのか。

サラリーマンですと差し出す名刺。しかし、その人がその会社のその役職の人だという証明はあるのか。電話をすれば、その人が現われ、その人がいたとしても、その人は、本当に、自分が名刺をもらったその人なのか…。

確かな証明を得ようとすれば、それは限りない疑問符の海を果てしなくさまようことになる。という世界に実は、オレたちは生きている。

日常を生きられているのは、オレたちの脳が、それは現実であると認識しているからだが、脳は、常に自己の保身と保全のために機能する。自分という人間と自分という人間が生きる世界をリアルと認識できていなくては、自己の整合性を失うから、それが、仮想であってもリアルと認識する。

できなくなると、精神的疾患を発症する。ようにできている。

だから、脳科学的にいっても、オレたちが生きてる世界の存在証明は、自己の中で完結させているだけで、実は、どこにも存在証明を持っていない。夢の世界かもしれないし、マトリックスの世界かもしれないのだ。

そこで、ソンチョウさんというリアルでない、仮想の設定の方が、かえってリアルがあるということになる。

つまり、いいたいことはこうだ。加圧トレーニングのRさんも京女優のKさんも、すこぶる現代を生き、その中で、他者とかかわる最適な方法を知っているということ。

私は、何者である、という存在証明でなく、私は、何者かでない、という否定の中でしか存在証明がえられない。だから、ソンチョウさんになる。それは、ソンチョウさんではないからだ。ないからこそ、ソンチョウさんとしての存在が証明できる。

内角の和の証明のために、一本の線を必要とするように、人は、仮想の一本をどこかに描けなくては、リアルと出会えない。