秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

バレンタインのチョコ

元女優のKから電話。

実は、数日前、「生きているのがつらくなった…」というメールをもらっていた。

三年ほど前にオレの仕事で使い、その後、何度かプライベートにも食事をし、専門学校の合格祝いもやってやった。いろいろと悩みや抱えている問題を聴いているから、奴にそう思わせた大方の予想はついた。だから、あえて、すぐに返信をしなかった。

逼迫したような相談や連絡でも、相手の性格や年齢を見て、パニクってるときは、ちょっと時間を置くのも一つの方法だ。人にすがるだけでは、自分の問題は解決できないということを教える意味もある。

昨日の朝、そろそろ立ち直ったかなと思い、「幸せの探し方を変えろ」と、返信のメールを打つ。そのメールに、電話で応えてきたのだ。おそらく、ただ、じかに話を聴いて欲しかっただけなのだ。

友人も、付き合う異性もいて、自分が抱えてる心の不安や悩みをそうした身近にいる人間にぶっちゃけることができない。いや、ぶっちゃけてしまったら、見捨てられたり、切捨てられるのではないかと不安で、心の内を明かさないないまま、いい子というペルソナを被る。

だが、吐き出せない苦しさがあるから、どこかにその苦しさを吐き出そうとして、違うものに逃げる。それが、また、吐き出せない苦しさを本人に実感させ、心の痛みが深くなる。

という人は少なくない。とりわけ、若い女性にそれが多い。悩みや自分の生活の問題を抱えている多くの若い女性たち共通に、その傾向が強い。と、オレは実感している。

そこに共通するのは、いい子教育を家庭で受けている連中。親に対して、いい子と評価される自分でいなくてはという圧力があり、無条件で甘えることができない。おそらく、しっかりした子として親の期待を押し付けられてきたから。

しかし、現実には、いい子としてばかりは生きていられない。悪さもやるし、ブラックなこともやる。悪さもブラックもそれを徹底してやれば、危険な賭けだが、そこから這い上がったとき、得るものもある。

だが、そこまで傷つき、汚れることは、いい子教育を受けているからやり切れない。多少の悪さとブラックさで、自分は何をやっているのだろう…と、落ち込む。それはそうだ。逃げ場としているだけだから、そこに得るものも、本当の意味でのいい出会いもあるはずがない。

近親者にはいい子で明るい子をやり、逃げ場としての世界では、便利に使われて大事にされない。ますます孤独は深くなり、行き場がなくなる。結果、ま、いいかと、整合性を保つために、逃げ場とした場所や出会った人間関係に依存し、それが、友人、恋人なのだと、無理クリ信じようとする。だから、満たされない。

この間のバレンタインデーで、チョコの消費の半分以上は、女子同士のチョコ交換のためだというデータが出ていた。それについての分析は何もされていない。

かつて、ルーズソックスがそうだったように、そこにあるのは、みんなからはじかれたくないという、同調圧力だ。

彼氏や恋人がいない子はもちろんだが、いても、女子同士の関係から逸脱したくない。なんとない感覚で、それが女子同士のチョコ交換になり、やがて、ルーズソックスと同じように、チョコの交換をしないと友だちとして認められない、認めてくれてないのではないかという不安になって、だれもかれもが、チョコ交換を始める。

友だちであるにせよ、ないにせよ。身近にいる女ともだちに、自分は友だちでいたい、なりたいという思いの存在証明として、チョコをやりとりしているのだ。チョコメーカーには、ありがたい限り。物を売る側にとって、この国の同調圧力への弱さは、この上ない宝だろう。

そこから自由になれとは、オレには言えない。その輪の中にいなければ、生きられないのだから、それに上手に合わせて生きるという知恵も必要な時代。しかし、それはあくまで、処世術と割り切って、自分の思いをぶっちゃけられる人間関係を、密かに、しっかり築くことだ。

もちろん、自分が信じ、この人なら大丈夫と思っていた人間に、裏切られることはあるかもしれない。しかし、可能性や先のことをあれこれ不安に思って、新しい出会いやいい人間関係から撤退していたら、満たされない思いは、いつまでも満たされないままだ。

可能性を考えるのではなく、そのために、今日、いま、何をすべきかを考え、それに取り組む。それしか、前へ進む方法はない。