おひさの運動
春の嵐が吹いた朝。久しぶりのウォーキングと軽いジョグに出る。
それでも、台風一過の青空と温かな南風の中、なぜか身体も軽く、心臓もバクバクせず、息切れも感じずに早足で歩く。運動をする連中はわかるだろうが、動き出し2・3分で、その日の自分の体調がすぐにわかる。それに合わせて、運動するのが、中高年の心得。若い頃のようにはいかない。
外苑の絵画館を回る頃には、今日は走れるなと、背中のリュックに入れた鉄アレーを取り出し、両手に持ち換えると、軽く走り出す。ウォーキングと違い、両手で3キロの鉄アレーをふりながら、たらたら1キロも走れば、汗でぐっしょりになる。
以前、『憲法対論』の対談を終えたばかりの宮台真司を湘南に誘い、初めてオレのボートに乗せたとき、同じように陽気がよく、海も凪だった。遠くに富士山がくっきり見え、風も暖かく気持ちいい。宮台氏がそのとき、ふと、海の風に身をまかせながら、「脳の中のゴミが掃除されてるみたいだ…」と独り言のようにつぶやいた。
わかる。そう思った。作品のこと、評論のこと、政治のこと、社会のこと、そして、生きて行くための仕事のこと、家族のこと、男女のこと…。それらを超ハイスピードで思考する人間には、脳にゴミが溜まる。コンピュータにバクが出たり、ウィルスが潜むように…。
伝えられない思いと伝わらない言葉。人に何事か伝えようとする人間には、必ずそれがある。だが、人は、その孤独の中で深くものをみつめ、考えることができるのだ。孤独を引き換えにしなければ、たどりつけないものがある。
孤独を突き詰めることで、人は初めて、愛と出会うことができるのだ。孤独を生きる人は、だから、愛と出会いたくて、あえて孤独を生きている。矛盾するその心情を持つ者こそが、クリエーターだと、オレは思う。
だから、脳が疲れているときは、脳のゴミを定期的に掃除するのが一番いい。そうしなければ、生き急ぎにアクセルがかかってしまう。
Oちゃんとこの彼岸の連休に海に行く約束をしていて、失念していた。撮影が入ると前後の遠い約束を忘れてしまう。幸い、Oちゃんも予定が入り、よかったが、平身低頭、失礼を詫びるOちゃんの姿に、Oちゃんも楽しみにしていたのだろうなと深く反省する。
だが、予定が空いていたとしても、この連休は、船は出せなかった。陸地で風速2メートルの風が吹くと、海ではそれが4メートルの風になる。風速4メートル以上の風だと、オレが乗る定員12名程度のプレジャーボートは出せない。海をなめてはいけない。海はいつも死と隣合わせ。その危機管理教育が小型船舶免許の基本。
ソンチョウが船長になったときは、マジ人の命を預かる立場になる。だから、実は、船の上でオレは酒はほとんど飲んでいない。飲んでいるふりをしているだけだ。同船者が楽しめなくなるのが悪いから。
そういえば、もう二年近く船に乗っていない。自主作品の制作という試練の波を泳ぎ切ったら、Oちゃん家族もだが、久しぶりに宮台氏と船に乗るのも悪くない。
海は黙って、人を癒してくれる。