秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

初心忘るべからず

少し、新しいオフィス空間での生活になれてきた。

狭い台所とトイレ、風呂の使い方に、最初は戸惑い、手をやいていたが、どうつかえば効率や段取りがいいか、使っているうちに身についてくる。

生活空間に身を置いて、そこになれてくるというのは、舞台の空間に身を置いて、芝居を重ねるうちに、その空間の生理に俳優の身体が馴染んでくるのに、似ていると、思う。

人間の生理や身体というのは、不思議なものだと思う。広い空間にいるときと、狭い空間にいるときでは、移動の歩数や歩幅、向かう角度なども違う。しかし、何度かその空間でパフォーマンスを繰り返すうちに、頭で考えなくても、歩数や歩幅、身体の向きなどが必然的で、自然な形になっていく。

ぶつかっていた物にぶつからなくなり、躓いていたものに、躓かなくなる。

身体と心の負担を軽減しなくては、繰り返し同じ形を繰り返す日常ではストレスが生まれる。それに馴染み、ストレスを感じないようにするために、いまある空間に馴染む訓練をすることで、空間と自分との生理の折り合いをつける。

しかし、一見それは妥当なようでいて、それが人の意識を鈍感にしたり、あいまいにしたりもする。

世阿弥は、それを「初心忘るべらず」と諌めた。馴れが生まれる危険を問うたのだ。

3月の決算期に向けて、今年は、例年にない忙しさに見舞われている人が多いと思う。景気が低迷し、売上げが落ちている分、競争は激しくなり、決算に向けての駆け込み需要の奪い合いや売上げの追い込みに追われている。

それ自体は、企業人として、ビジネスマンとして、ひとりの生活者として当然のことだ。例年にない忙しさは、人を成長させてくれるプレッシャーと経験を与えてくれるし、自分の技量を追い込むいい機会にならないわけではない。

あるいは、派遣切りやリストラなどに遭遇し、就活をしながらのパートのかけもちやフリーターの生活に追われている人も多いだろう。今日、明日の生活のために、身体を酷使している人も少なくない。

しかし、そのように生活に追われて忙しいときほど、用心がいる、とオレは思う。忙しさの中で、自分に蓄積されるものがあるときはいい。しかし、忙しさの中に自分が紛れてしまうことは危険だと思うからだ。

忙しさに追われていると、自分という人間のあり方や周囲の環境を俯瞰して見つめるということできなくなる。忙しいということにだけ、価値があるような錯覚に襲われ、自分はこんなに忙しいのだから、いまの生活を有意義に生きているはずだと思い込む。しかし、果たしてそうなのか。

忙しいがゆえに、かえって睡眠時間が減ってしまったり、深夜の飲酒をしてしまう人間は少なくはない。自分の置かれている現実から遠ざかり、そうしたことで覚醒する意識を麻痺させようとするのが、実は人間の生理でもあるからだ。

それが、また、人々の意識を鈍感で、あいまいなものにしてしまい、自分の置かれている現実を見えなくする。

自分のいまを視点を変えてみるということがなければ、心は追い込まれる。また、それがなければ、いまある忙しさの向こうに何があるのかも見えてこない。それは、希望なき生活の希望なき現実を、ただ、遠ざけているだけにならないのだろうか。