芸術の本道
人の多面性というものを忘れた社会…表の笑顔や苦渋の表情だけで、人がわかったように思う社会は、実にもろい。
にもかかわらず、人が多面性を避けるように、単一的で、即物的で、人の側面や一面だけを切り取ってしか、他者を理解しようとしないのはなぜか。
それは、表情の裏にあるものを知るのが怖いからだ。
超高度情報管理社会と社会の成熟化の中で、多様性と流動性が生まれた。その世の中で、いかようにも人が変貌し、表の顔とは異なるいくつもの自分を持っていることを人々はよく知っている。
暴かれては困る自分の性癖や性質、気質…それを他者に気取られないために、他者のそうした多面性に触れようとはしない。また、そうした邪で、淫靡で、悪しき問題にふれると、何かが壊れるという不安もある。
これまでからくもつないでいた人との関係、他者性が一瞬のうちに反故になる…という社会にオレたちは生きている。
それが、一面による人の理解という歪さを生んでいるし、また、そうすることで他者との対立や齟齬、もっといえば、人から嫌われることを避けようという意識が働ている。
しかし、現実は、そうはいかない。人が深く交われば、自分の中にある、まだ気づかなかった自分が露出するということもある。逆に、他者にこんな一面があったのだと愕然とすることもある。
しかし、現実は、そうはいかない。人が深く交われば、自分の中にある、まだ気づかなかった自分が露出するということもある。逆に、他者にこんな一面があったのだと愕然とすることもある。
表に現れた時間、表に現れている表情…そこに真実はない。人は所詮、自分の愚かさを隠そうとするし、取り繕おうとする。そこに笑顔があり、痛々しい表情がある…ということを学び、現れたキャラクターの向こうにあるものを読み取らなくてはいけない。
しかし、実は、こうした自己の存在のあいまいさと不確かさ、それゆえの他者性が成立しずらい時代は、小説や映画、美術など芸術にとっては恵まれた時代なのだ。
にもかかわらず、芸術に華が咲かないのは、いうまでもない、人々がこの現実を避けよう、素通りしようとしているからだ。自分の醜さと向き合おうとしてないからだ。
つまりは、芸術の本道をはき違えている。