秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

相対化すること 開くこと

地域といってもひとくくりではない。
 
ひとつの市町村の中でも、恵まれた環境にいる人もいれば、やや恵まれた環境の人もおり、そして、厳しい環境の中に生きる人もいる。
 
それと同じように、恵まれた環境にいて、それを恵まれていると感謝している人もいれば、不満や不足を感じている人もいる。逆に、厳しい環境にあっても、その厳しさが自分たちをしあわせな道へ歩む知恵をくれていると感謝する人もいる。
 
もちろん、厳しい環境の中で、やはり、心をくじかれ、明日への希望や夢など持てない…という人も少なくはない。中には、生きることをあきらめる人もいる。
 
よく人権啓発の講演などで話をすることだ。このブログでも幾度となく語っている。
 
人は、平時にあるときは、人様のためにとか、世の中ために、社会に役立つことを…あるいは、人を傷つけてはいけない…といったことを考えることもできれば、実際にそうした行動を起こすことも難しくはない。
 
しかし、自分の生活が壊される、自分の明日が危うい、自分のなにかが奪われる、あるいは、強いストレスにさらされる…といった乱にあるとき、自分さえよければ、という思いが生れてしまう。
 
自分を守るために、他者を傷つけもすれば、他者のものを奪うことも容易になる。有史以来、人類の歴史は、それを繰り返し、そして、平時に自戒し、しかし、また、有事になると平時ではやらないことを罪悪感もなく、繰り返してきた。
 
だから、平時にあって、社会が用意しておかなくてはいけないことは、乱にあっても、人が持つ本来の弱さを吐き出さないための教育であり、しくみなのだ。望むべくは、もちろん、乱を起こさないことだ。そのために心血を注ぐ社会であることが最良の選択。しかし、橋下といったニューネオコンや石原のように終わってしまったネオコンが台頭するいま、それは期待できない。
 
しかし、最初に述べたように、これだけ、多様な思いが社会に生まれ、ひとつの均等な環境が与えられれば、それで人がすべて幸せを感じることができない社会が登場した。とりわけ、新自由主義=ニューネオコンが、すべての人の幸せや生き方の選択はそれぞれの人が自由に勝ち取ればいいという市場優先主義の教育を広げた結果、自分の幸せ、生き方が第一という人間が増えて当然。
 
結局、自分たちが持つ人間としての危うさにブレーキをかける仕組みが瓦解した。そうなると、平時そのものが乱の時代となってしまう。乱になれば、人のことを深く斟酌しない社会が日常となるということだ。いわば、オレたちは、小泉以後、日本人がこれまで経験したことのない、非日常といってもいい社会を生きているのだ。
 
だから、自殺者数も増え、かつ孤立死の数も増えている。いじめも増えれば、DVも増える。家庭内の殺傷事件や近隣同士の殺人事件が異常ではなくなる。非日常というは、人を社会から撤退させ、閉塞させる。閉塞すれば、世界は小さくなり、濃密になる。そこでは虐待や暴力が密室化するからだ。その現実の怖れが家庭をつくることのためらいになる。当然ながら婚姻がうまくいかず、少子化と高齢化は拍車がかかる。

それを抑止し、改善し、日常を立て直すには、格差の是正と家庭、地域を開くことだ。これまでの眼に見える範囲の世界ではなく、かつ、これまで自分の生活地域の日常と思っていた世界から別の生活地域の日常へとアクセスしていくことだ。なぜなら、いまや、それぞれの日常が非日常でしかないからだ。
 
対象化、相対化する…ということは、人が日常のバランスを維持するのに途轍もなく大事なことだ。
 
自分はこんなに恵まれた環境にいるのだ、自分はやや恵まれた環境にいるのだ…という自覚を持てるのは、他者との相対化の中でしか自覚されない。かつ、自分は厳しい環境にいるが、恵まれた環境にないものがある…という確信と自信も相対化の中でしか誕生しない。そうした相対化ができる中で、互いが開き、つながることができる。あるいは、その日常のあり方はおかしいという訂正と修正も生み出すことができる。
 
道州制がいまさかんにいわれているが、この明確な意図と目的がなく、単に制度変更としてしかとらえてない。それでは、選択された道州制の主都が再び東京的なるもの、中央集権機構に置き換えられるだけでしかない。