秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

遅れてきた青年

今日、2月6日で、会社の創業20周年になる。

資金も、仕事も、ネットワークもないところで、無手勝流に始めた仕事が、気づいていれば20年続いていた。というのが正直なところ。当初は、以前、役員をしていた会社の経営のやり方を踏襲し、一人で一億の売上げを上げるのを目標にしていた。実際、7000万の売上げまでは達成した。

それが、人との出会いや景気の変動、新しい仕事との巡りあわせを繰り返しているうちに、オレ自身の中で封印していたものが、呼び起こされ、覚醒していった。

一番大きかったのは、社会学者宮台氏との出会いだったと思う。

自分の中で、これまでの仕事の内容を大きく変えようと意図していたとき、当時担当していた宗教法人立正佼成会の番組の中で、こちらから声をかけ、宮台氏と仕事をすることにした。

東急文化村のカフェで、当初30分くらいなら時間がとれますという宮台氏と、気づけば1時間以上、話しこんだのを覚えている。その後、オレが企画するいろいろな仕掛けに、それがオレの仕掛けと承知の上で、宮台氏は付き合ってくれた。

社会に対して、何事かを発信し、人々の意識を変えていきたいという願いは、演劇やシンガーソングライターをやっていた、高校時代から、いや、中学時代から自分の気持ちの中にあった。大学の講義で学んだことも、自ら目的を持って独学したことも、そして、そこでの友人たちの出会いの中で、取り組んでいたことも、すべて、そのためだった。

その象徴がオレには劇団だったし、舞台を通した表現だった。映像の制作会社に勤めながら、東宝の戯曲科に入ったのも、舞台という場を通して、社会に何事かを発信するという作業をとめたくなかったからだ。

しかし、ビジネスシーンの中に身を置くと、生来の負けん気から、自分の表現者としての意志を封印していた。それが耐えられなくなって、会社をやめ、独立したのだが、オレは、まだビジネスシーンでの成功願望をどこかに引き摺っていたのだ。

宮台氏が意図したものではないが、宮台氏と会話を重ねているうちに、封印していたそれらの記憶やオレがかつて必死に学んでいた、いろいろな記憶と知識を氏は思い出させてくれた。

それが丁度、広尾から乃木坂に移転する15年ほど前のことだったと思う。気づいてみれば、宮台氏との付き合いも長くなった。その間、プライベートでも、ふれあうようになり、斎藤環氏と同じように貴重な存在になった。

そして、オレは舞台ではないが、映画というジャンルの端で仕事をするようになった。しかし、そのすべてに、宮台氏が覚醒させてくれたものを生かしている。

生きるために封印していたもの、覚醒されたものを生きようとすることは、苦難と試練が多い。しかし、かつて、どこかでそれを避け、自分の安定だけを求めていた頃に比べたら、遥かに、心地いい。

孤独と焦燥と、無念さや慙愧の思いとは、常に同伴の人生になってしまったが、オレがオレであるための仕事を続けようとする度に、自分の意志や思いを問い直され、それでも前へ進もうとするところに、守るべき信念や果たすべきミッションが見えてきた。

苦難や困難の向こうに、何があるのか、それはオレにはわからない。

しかし、この道を歩む以外、自分らしい生き方はないという確信だけは、譲ってはならないと思っている。

オレは、<遅れてきた青年>として、21年目の明日を刻む。