ひとりの心を動かさなければ
午前中、総務省のコンペ見積を作成し、そのあと、残っていた徳島での人権啓発シンポジウムの議事録を起こす。
先に進めなくてはいけない仕事はあるが、中途半端に残した聞きお越しを先に片付けることにする。半日で終わると思っていた作業に、結局1日をとられる。
数年前から、京大でオレの作品をつかって人権啓発の講義がされていて、京大大学院を休職して修了した、高等学校のI先生とI先生の師匠になるM教授との対論になっている。
よく人に聞かれる。秀嶋さんは、毎日ブログを更新し、HPでも評論やこうした講演、シンポの記事を掲載している。仕事で忙しいときもあるだろうに、どうしてそこまでやるのか…。
社会を変えていく。あるいは、社会の問題に目を向け、人がよりよく生きるために何か行動を起こそうとするとき、人は、とてつもなく大仰なことをしなくてはと考える。多数の人にどう訴えようとか、話題性に乗らなくては人は動かせないとか…。
しかし、果たしてそうだろうか。
たとえば、200人、1000人、あるいは、10000人の聴衆がいたとしても、その中で、オレたちの話や討論を聞いて、そこで刺激を受け、学んだこと、自分なりに咀嚼したことを生活の中で実践でき、行動に移せる人間は、すべてではない。
頭で理解して、賛同する人は多いとしても、自分自身が火の玉になり、その火をまた、自分の回りにいるだれかに受け継ぎ、ひとつ、またひとつと火の玉を増やしていける人間はそう多くはない。
10000人聴衆がいようとも、その中のたったひとりの心を動かせなければ、社会は変わっていかないのだ。
ジョン・レノンが好きな人はたくさんいる。彼の音楽を愛し、ファンだという人は世界中にいるだろう。だが、その中で、ジョンが願った世界の実現のために、自分の生活そのもの、自分の家庭や仕事の中で、その願いを実践し、行動している人間はどれだけいるだろう。
大切なのは、数は少なくても、だれかひとりの心を動かすことが大事なのだ。と、オレは思っている。
ブログでも、HPでも、そして、東映の仕事やうちの自主作品の中でも、あるいは、映画の企画の中でも、オレはそれを常に意識しているし、飲み屋にいって知り合った人間にも、仲間内の集まりでも、そのことを忘れたことはない。
ひとりの心に伝えることが大事なのだ。
だが、オレが語ること、伝えようとすることをすべて受け入れてもらうことを期待しているのではない。乱暴で、極端なオレの言葉や意見に、それをかなり意識してぶつけてはいるが、どういう形でも眠っていた心が動いてくれれば、それでいいのだ。
人に何事かを語るというのは、ただ、種をまくことができるに過ぎない。その種をどう育て、どう生かしていくは、オレの力ではなく、その人の力であり、受け止め方なのだ。
それについてまで、不遜なことを期待しないし、何かオレの望む結果を要望しているわけでもない。なぜなら、すべての選択と行動は、その人の自由だからだ。
ただ、みんなが、実は、思う以上に、自由なのだということを伝えることが、オレにとって、何よりも大事なことであるに過ぎない。
それを伝えるために、自分にできることならば、どのようなことでも労を惜しまない。