秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

時代の答え

この2ヶ月ばかり、運動をほとんどしていなかった。

メタボの騎士は、昨年の健康診断で、またまた体重を減らすようにと注意を受けていたのに、診断後、真逆のことをしていた。

仕事のストレスがあると、食欲が減退するときと、増進するときがある。また、書き物に夢中になっている時期は、つい運動を忘れ、デスクにしがみついてしまう。それが、身体に出たのだ。

50歳を過ぎてからは、本当に意図して運動を心がけ、食事に気をつけないと、太るだけでなく、あちこちに危険信号が出る。わかっていても、平準なペースで生活ができない、小心者は、だから、心が身体に出る。

ということで、忙しさを理由に最近、電車ばかりだった怠け心を諌めるべく、中野坂上の音効スタジオに自転車を走らせる。音効のKと、昨年撮影、編集を終えていた自主作品の音付けの打ち合わせ。

この間、公開上演されていた『0の焦点』を担当していた音効のSが、めずらしくスタジオにいて、しばし、映画談義。奴は、今年も東映、日活、東宝と仕事が立て続けで、自分の会社のスタジオでなく、撮影所通い。

広末涼子が、『ヴィヨンの妻』で女優に開眼し、『0の焦点』でもいい芝居をしていたというと、奴の周囲でも評価が高いという。いずれの作品も、生誕100年の記念作品だったからつくれたという事情があり、観客動員はいまひとつだった。

こうした骨太の日本映画で、役者もいい芝居をしながら、観客動員がふるわない。それが、こうした映画がなにかのメモリアルでなければ、なかなか制作されない理由だ。

その事情は、多くの一線監督と付き合いのある、Sもわかっている。

小説やアニメ、エッセイ、ドキュメンタリーなど原作がなければ、いま映画企画はほとんど通らない。オリジナル脚本をやりたいという思いを持つ監督はたくさんいるが、かりにそれがいい作品だったとしても、監督自身が資金を集めない限り、一般公開が難しい。

いま東映に企画を頼まれて、投げ込んでいる作品も、開口一番、原作は?と聴かれている。それでも、あえて、提出してくれたプロデューサーには感謝だが、高いハードルの戦さだということは、みんなわかっている。

Sは、しきりに、オリジナルであるべきですよ、という。原作に頼った映画のあり方は、映画を痩せさせる。そればかりか、映画人も、映画の観客も育てない。いま日本映画は、海外の作品に比べて大きく水をあけられている、という思いは同じだ。

佳作小品ながら、制作者の熱意や資金協力している団体などの思いのこもった作品が生まれてこないのも、そうした事情を背景としている。

ただ、あれこれ不満や愚痴をいってもしかたがない。こうした現実を受け入れて、その中でどう形にできるかを模索し、努力を積み重ねていくことでしか、状況を変えていくことはできない。

昨日の高田社長の言葉、そのままのことが、オレたちにもいえるのだ。

オレは、これからの時代は、作戦(さっくせん!)の時代ではないような気がしている。確かに、マーケティングリサーチや市場分析、デザイン工学は大事だ。映画も商売としてある以上、コマーシャリズムの世界からは逃れられない。

だが、データというデジタルな数字に現われる以上のものが、人の心にはある。

いままで関心もなかった人を好きになったり、すごく苦手だと思っていた人と信頼関係をもったりする。
あるきっかけで、よく知る、身近な人を、異性として意識し、愛を感じるときもある。逆に、ある瞬間、それまで深く愛していた人が別の人に思えるときがある…。

人は、悲しいかな、眼に見えたものしかわからない。だから、目に見えないものに気づいたとき、いままでのデータが無効になっってしまうことがよくある。

ノーベル賞経済学賞を受賞したジョン・ナッシュが考案した数学理論をもとに、今日の多機能家電製品が生まれた。強いか弱いかでなく、強くもなく、弱くもなくという、人の心が求める曖昧さを、それまで二元的に割り切るとでしか提供できなかったデジタル信号の世界に導入したからだ。

世界が経済の疲弊、紛争の最中にある中、人々が心の奥で求めているものをなにかを知るのに、だから、データや経験則に頼ったあり方では手が届かない、とオレは思っている。

新しい時代の新しいあり方は、意外に、生活者一人ひとりの心の深層に芽生えている。それをつみとり、目に見える形にすることでしか、新しい時代は切り拓けないように思う。

時代の求める答えは、そんなふうに、目を凝らせば、身近にある。