志
年内に編集を終えておきたかった、自主制作作品の編集作業を終えて、夜、女優の内田と、行きつけの韓国料理屋「韓」で、参鶏湯(さむげたん)を食う。
このところの慌しさもあってか、生ビール一杯とチャミスルで、ほろ酔いになる。いつもそうなのだが、食事をしながら酒を飲むと、酔いの回りが早い。しかし、なぜか昨日は、参鶏湯がどうしても食いたくてしょうがなかった。
きちんと晩飯をくったのは、久しぶり。この間の健康診断で、あれこれ脅かされたので、禁煙は無理にしても、この一月近く、食事をコントロールしている。
久しぶりに腹いっぱいになり、韓を出て、内田が帰るのに、大江戸線が近いからと、Redに顔を出す。
いい感じで、できあがっているから、酒が進まない。しかも、やたら眠い。そういえば、前日3時近くまで編集をやっていて、4、5時間しか寝ていなかった。
途中、お手伝いのエリが、店が混んでいるだろうからと、お手伝いグッズを持って登場してから、少し元気になる。結局、お手伝いをするほどでもなく、オレの話相手をしてもらう。気づいたが、エリは、実に聞き上手だ。話をしながら、改めて、エリの人柄のよさに気づく。
一方、フジテレビでやっていた、「のだめ」が映画化されて、それを見にいくという内田に、あれは映画ではないから始まり、テレビドラマでも電波の無駄遣い、映画であれば、フィルムの無駄遣いと、ミーハーノリをボコボコに批判する。
内田に限ったことではない。どうしても、いまどきの人は、いまどきの映画を観たがる。それで映画らしきものが成り立っている、この国。
いま、この国の映画は、映画の観客ではなく、テレビドラマの視聴者が映画産業を支えている、世界にも稀な不思議な国なのだ。テレビの資本と力を借りなければ、映画が成り立たない。つまり、映画が映画として自立しておらず、映画芸術を支えられる観客が実に少ない。
ヨーロッパやアメリカ、中国など、テレビと映画の世界が隔絶している国々は、まだ、映画芸術を支え、楽しむという文化がある。テレビと映画は、根本的に違うという世界観が定着しているからだ。
舞台が、舞台でなければならない生理を作品が持ち合わせていなければ、舞台である必然性がないように、映画が、映画でなければならない表現を作品が持ち合わせいなければ、映画である必然性もない。
とりわけ、テレビという媒体は、不特定多数の人間が意図せず視聴できる表現媒体であるがゆえに、情報規制が多く、当たりさわりなく、オーサライズされた作品しか放映できない限界性がある。それを、映画の主流にするとどうなるか、明らかなことだ。
恣意的、選択的に見る映画は、ある部分、舞台と似ている。そこでの表現も、テレビとは比べられないほどの自由さがある。それを映画が失って、なんの映画ぞ。
エンターテイメントが悪いとはいわない。だが、レンブラントの「夜警」を見て、クリムトの「接吻」を見て、人々が感動という喜びを感じるような質感こそが、真のエンターテイメントなのだ。少なくとも、写真芸術の延長にある映画芸術は、それを忘れてはいけない。
それは制作する側だけでなく、観る側の姿勢としても求められることだ。それがなければ、いつまでも、全世界で公開されるような日本映画は生まれない。
そこまでは、内田に語ってはいないが、帰り際、明日は、「のだめ」ではなく、いけなかった美容室にいって、髪を染め直すことにするという。「のだめは、DVDでもいいですよね…」。
なんとなく、無理くりオレの考えに同調させたような、奇妙な責任感を感じ、別れる。素人なら、オレもそこまでいわない。少なくとも役者を目指す人間だから、そこまでいう。
仕事になれば、食えれば、作品の内容にかかわらず、仕事をするのが役者だ。そこに主張やポリシーがあれば、苦労をするだろう。だが、それがない役者は、役者として、なにか一芸に出会うことはない、育てられる環境や人と出会うこともない、とオレは思っている。
何につけ、志は常に高い方が、やっている人間も、みている人間も、心地いい。
このところの慌しさもあってか、生ビール一杯とチャミスルで、ほろ酔いになる。いつもそうなのだが、食事をしながら酒を飲むと、酔いの回りが早い。しかし、なぜか昨日は、参鶏湯がどうしても食いたくてしょうがなかった。
きちんと晩飯をくったのは、久しぶり。この間の健康診断で、あれこれ脅かされたので、禁煙は無理にしても、この一月近く、食事をコントロールしている。
久しぶりに腹いっぱいになり、韓を出て、内田が帰るのに、大江戸線が近いからと、Redに顔を出す。
いい感じで、できあがっているから、酒が進まない。しかも、やたら眠い。そういえば、前日3時近くまで編集をやっていて、4、5時間しか寝ていなかった。
途中、お手伝いのエリが、店が混んでいるだろうからと、お手伝いグッズを持って登場してから、少し元気になる。結局、お手伝いをするほどでもなく、オレの話相手をしてもらう。気づいたが、エリは、実に聞き上手だ。話をしながら、改めて、エリの人柄のよさに気づく。
一方、フジテレビでやっていた、「のだめ」が映画化されて、それを見にいくという内田に、あれは映画ではないから始まり、テレビドラマでも電波の無駄遣い、映画であれば、フィルムの無駄遣いと、ミーハーノリをボコボコに批判する。
内田に限ったことではない。どうしても、いまどきの人は、いまどきの映画を観たがる。それで映画らしきものが成り立っている、この国。
いま、この国の映画は、映画の観客ではなく、テレビドラマの視聴者が映画産業を支えている、世界にも稀な不思議な国なのだ。テレビの資本と力を借りなければ、映画が成り立たない。つまり、映画が映画として自立しておらず、映画芸術を支えられる観客が実に少ない。
ヨーロッパやアメリカ、中国など、テレビと映画の世界が隔絶している国々は、まだ、映画芸術を支え、楽しむという文化がある。テレビと映画は、根本的に違うという世界観が定着しているからだ。
舞台が、舞台でなければならない生理を作品が持ち合わせていなければ、舞台である必然性がないように、映画が、映画でなければならない表現を作品が持ち合わせいなければ、映画である必然性もない。
とりわけ、テレビという媒体は、不特定多数の人間が意図せず視聴できる表現媒体であるがゆえに、情報規制が多く、当たりさわりなく、オーサライズされた作品しか放映できない限界性がある。それを、映画の主流にするとどうなるか、明らかなことだ。
恣意的、選択的に見る映画は、ある部分、舞台と似ている。そこでの表現も、テレビとは比べられないほどの自由さがある。それを映画が失って、なんの映画ぞ。
エンターテイメントが悪いとはいわない。だが、レンブラントの「夜警」を見て、クリムトの「接吻」を見て、人々が感動という喜びを感じるような質感こそが、真のエンターテイメントなのだ。少なくとも、写真芸術の延長にある映画芸術は、それを忘れてはいけない。
それは制作する側だけでなく、観る側の姿勢としても求められることだ。それがなければ、いつまでも、全世界で公開されるような日本映画は生まれない。
そこまでは、内田に語ってはいないが、帰り際、明日は、「のだめ」ではなく、いけなかった美容室にいって、髪を染め直すことにするという。「のだめは、DVDでもいいですよね…」。
なんとなく、無理くりオレの考えに同調させたような、奇妙な責任感を感じ、別れる。素人なら、オレもそこまでいわない。少なくとも役者を目指す人間だから、そこまでいう。
仕事になれば、食えれば、作品の内容にかかわらず、仕事をするのが役者だ。そこに主張やポリシーがあれば、苦労をするだろう。だが、それがない役者は、役者として、なにか一芸に出会うことはない、育てられる環境や人と出会うこともない、とオレは思っている。
何につけ、志は常に高い方が、やっている人間も、みている人間も、心地いい。