秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

そもそも論

企画書や原稿書き、脚本制作といった書き物の世界に入ると、どうしても日常的なことが、どこか覚束なくなる。

普段なら気がつくこと、気が回ることに、ふと鈍感になり、根回しや念押しといったことがおろそかになる。とりわけ、オレのように、会社の売上げ、資金繰り、そして、プロデュースにも頭をめぐらせなくてはいけない立場にあると、クリエイティブな脳とエグイ経営者としての脳とが、お見合い状態になり、フリーズすることもしばしば。

このところ、時間の空いたところを見計らって、社会評論の書き物をし、かつ、読めなかった本を読んだりしているものだから、オレの脳は、時々、宇宙の彼方に飛んでしまう。オレがいつもいう、物書きモードという奴。

そんなオレの脳の状態で、数日前に数学の素数にまつわるドキュメンタリーなど見てしまうから、飛んでいる脳が、ますます形而上学的になる。

そこへ、昨日は、はたまた、同じNHKのハイビジョンで、<ボワンカレ予想>の超難問に挑み、2006年にこれを証明しながら、数学界のノーベル賞フィールズ賞を辞退し、以来ひきこもりっているロシアの数学者、グレコリー・ぺレルマンのドキュメンタリーを、これも偶然見てしまった。

オレの脳がそれを求めているのか、それとも、天がオレの脳に、刺激を与えるべく、新しい情報を注入しようとしているのか…。

それにしても、オレは、どうして、こうも難解な思考や数学、宇宙物理学、量子物理学、分子生物学などの情報に心躍るのだろう。学生の頃は、数学も物理も大の苦手だったのに…。

日常生活と数学や物理学、哲学、宗教学など形而上的な世界とは、無縁のように思う人がいる。しかし、人が生きる日常の中には、原理がある。原理といってわかりにくれば、人が生きるということにある、そもそも論のことだ。

そもそも、人はなぜ生まれたのか、なぜこの地球という惑星の、しかも、いまという時代に生き、かつ、日本国という国の、オレでいえば、福岡に生まれ、いま東京という都市に生活しているのか。自分はどこからきて、どこへ行くのか。その生は、何のためにあり、なぜここにいま生かされているのか。

これが、まず第一のそもそも論だ。

そして、いまの社会は、世界は、なぜこのような姿になっているのか。そこでの人の幸せとは何か。豊かさとは何か。子どもたちが生きる未来のために、自分たち大人にできることは何で、それは何を基準とすべきなのか。

これが、第二のそもそも論だ。

子どものとき、誰もが、海がなぜしょっぱいのか、空がなぜ青いのか、森や海、空や鳥には、そうした名前がつけられたのは、なぜなのか。赤や緑、黄色という色の名前は、なぜ、そうでなければならないのか、星はどうして光り、宇宙はどんな形をし、どうしてあるのか…。といったことに、ことのほか関心を持ち、常に疑問と発見があったはずだ。

未知なるものへのたゆまない好奇心こそが、そもそも論の基本にある。だから、日常の瑣末な一つひとつが脳を占有するようになると、好奇心や探究心がわきにやられ、未知を解き、未知から現実と未来を学ぶということができなくなる。

分子生物学の草分け、渡辺格があって、今日の地球生命体という考えが広く国民に浸透したし、病理学者吉田富三などの業績があって、わが国の免疫学の発展があった。アメリカ人医師、ローゼンバークの臨床研究がなければ、遺伝子治療(免疫療法の一つ)も、今日のようにガン治療の有効な手段にはなっていない。

そもそも論を探求する人間がいなくては、オレたちの日常を底支えすることもできないのだ。

しかし、そもそも論を探求するのは、至難だ。特段、科学者ではなくても、そもそも論なしで、日常を生き抜くのは難しい。いまを生きることの困難さの多くは、人々が、そもそも論をやらなくなってからではないだろうか。

そもそも、男女の付き合いとは何なのか、仕事とは何なのか、会社は何のためにあり、何をなすべきところなのか。結婚とは何で、子どもを生み、育てるとは何なのか。家族とは何なのか。親子とは、老いとは、誕生とは…。といった、そもそも論が、いまはどこか脇にやられている。

それが、人々の中から倫理や道徳、秩序や常識といったものを無力化している。と、オレは思っている。

人は自由でなければならない。しかし、その自由は、そもそも論あっての自由でなくてはならない。