秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

コアへのこだわり

11月とは思えない陽気が続いている。

11月も中旬を過ぎると、外苑のいちょうは、ゴールデンカラーに包まれて、12月の初旬になると、すっかり葉が落ちるということもあったのだが、ここ最近は、11月下旬、12月初めにならないと、あざやかな黄色の葉を見ることができない。

今年は、とくにそれに拍車がかかるような気がする。

青山は、結構、祭り、イベントが多い。春の霊園の桜、6月の郡上八幡の風の盆、夏の神宮花火、秋の神輿祭り、青山まつり、東京デザインウィーク、そして、イチョウ祭りと続く。その間に、春秋の六大学野球大会、夏のプロ野球、秋の秩父宮ラグビー、国立の陸上競技会、サッカー、ラグビーが入ってくる。

構えて、それらを楽しむということは、ない。ジョギングのついで、散歩のついで、仕事でクライアント先に向かう自転車から、といった生活の中の一こまとしてしか、楽しめない。だが、それが都心、しかも中心部にある祭りやイベントの楽しみ方かもしれない。

基本、人ごみが好きではないオレのような出不精には、ふらりと足が運べるくらいの近さと、混雑しない程度の賑わいくらいの方が加減がいい。それに、若い奴が少ない祭りやイベントは、どこか落ち着いている。

麻布十番祭りがつまらなくなったのは、若い連中で溢れるようになってからだ。都市型の地元イベントというのは、下町のイベントとはノリが違う。それぞれのよさをなくしたら、それぞれのコアな連中は足が遠退く。それが衰退の走りになる。

松本清張生誕100周年で、昨年放映された『点と線』が昨日リバイバル放送されていた。最初のときには、ドラマに組み込まれていた、現代がカットされての放送だった。

前は、昭和29年という時代を描くだけでは、制作者が不安だったのだろう。現在の東京駅からドラマが始まり、無理くり現代(いま)とつなごうとしていた。復興期や高度成長期を描こうとするとき、よくやる制作者のまちがいをやり、ドラマを実につまらなくしていた。

公開予定の映画『ゼロの焦点』は、そうした余剰を排している。それが、正しい。質感が守られる。結果、清張が意図した世界が描ききれる。

松本清張は、社会派の作家だ。しかも、当時の闇の世界を描こうと果敢に挑戦した作家。だから、その時代にしか通用しなかったのではないかと、無知な制作者は不安になる。

それが落とし穴になり、作品をつまらなくする。まともな社会派作家は、その時代を丹念に描きながら、次の時代にも通じる問題点や提言をきちんと入れている。生活者でもある視聴者は、そうしたことに敏感なのだ。つまり、あえて、説明過多に現代とつながなくても、伝わるということ。

また、明治、大正、昭和期の生活を描くと、それが若い世代など若年層を取り込めないのではと不安になり、無理くり視点を現代におこうとする。これもよくやる手だが、大方失敗する。

時代の生活を詳細にしらなくとも、普遍的な人間心理を描こうというスタイルが徹底していれば、それはまったく問題はない。いや、古き時代という虚構がある分、一層伝わり易いということがある。虚実皮膜だ。

つまり、作品によって、描いている世界のこだわり=コアが違う。そのコアが徹底していなければ、内容は散漫になり、意図した世界も構築できない。緩い作品になれば、コアは集まらず、結果、口コミも広がらず、人が集まらないという作品になる。

今期ドラマで、いい数字をとっている『JIN』『不毛地帯』、とりわけ、『JIN』は、時代性を超えて、人間の感情、情感がきちんと伝えられるということを証明している。