秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

確かな国

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昨日は沼袋で、こてこて昭和を感じさせる古びた家屋をロケハン。

沼袋で降りたのは、35年以上東京に住んでいて初めてだった。確かに住宅地だから、界隈に在住か、知人、友人でもいないとなかなか、こうした場所には縁がない。

大学時代の仲間が、当時、一駅先の野方に住んでいて、沼袋とは近いのだが、その野方さえ、親友がいるのに行くことはなかった。奴は、「ときわ荘」的、4畳半のすげぇ古い木造アパートで、生活感もなく住んでいたらしく、オレたちを寄せ付けなかった。

トイレ共用、風呂なしの古い木造アパート住まいは、オレたちも同じだったが、オレやF大教授のHと違い、もてなしができるタイプではなかったのだ。

いま思えば、台所も畳み三分の一の狭いもので、拘置所や刑務所のような狭い部屋に、本箱と机、テーブル代わりのコタツだけで、よく生活していた。気候変動で、いまは暖冬なのもあるが、エアコンなんてありえないから、夏は部屋にはいられないほど、暑く、冬は、身体の芯まで冷えた。

ガスストーブなど使った日には、仲間から、贅沢だとやっかみも含め、批判された。清貧、質素ながら、大志を燃やす、なんていう「坂の上の雲」的空気感が、オレたちの学生時代には、まだあった。

中学時代から警察官舎の団地住まいになり、福岡の高宮の実家はマンションだったから、幼い頃は平気だった、木造家屋の寒さは堪えた。オレは東京にきて、底冷えのする寒さというものを初めて知った。

四畳半の生活は、よく言えば、茶室的空間で、形而上から形而下まで、つまり、革命から下ネタまで、あらゆる夢想ができる空間だった。オレの夢想は、いまも空のコップで、この歳になっても、まだ続いているが…。

あの頃は、女の子たちも、よくあんなくそ暑く、寒い木造の狭い部屋に来て、セックスをしてくれたものだと思う。いまどきのオネェちゃんなら、「それ、無理!」の一言で撃沈だろう…。なぁんてことを夢想しながら、沼袋の駅前商店街を歩く。

オレは阿佐ヶ谷が長かったせいもあるが、昭和を感じさせる店は多かったが、どうしてか、当時から阿佐ヶ谷には、ちょっと先をいった店も多かった。近在に住む、谷川俊太郎などもよく顔を出していた、「バナナフィッシュ」という店は、オレの好きな店だった。

そうした気質が街にあったのか、いま阿佐ヶ谷は、オレがいた頃とは想像もつかないほど変貌している。

それに比べ、沼袋は、地方の多少賑わいのある商店街を思わせる空気感がまだ残っている。古い帽子屋には、昭和のオヤジたちが好んで使っていたような帽子がまだ並んでいる。いまどき誰か買うのだろうという、婦人服や靴の店がある。惣菜も売る肉屋もあれば、魚屋もある。

だが、やはり、ところどころ歯抜けのように、シャッターが降り、「売店舗」の紙が貼ってある。それが、また、逆に、賑わっていた頃の昭和のにおいをかもし出して、なつかしい。

ディラーをやっているオレの古い友人で、車を止めてからは、いまではほとんど付き合いのないIの近くに、斬首された吉田松蔭を祭る、松蔭神社があり、その参道に商店街があるのだが、そこも、どうしてここに? というくらい店が並び、人が行き交ったいた。

撮影などでも使い、通り魔事件のあった戸越銀座商店街もそうだ。長い付き合いで、仕事でいろいろ迷惑をかけているホストプロのある河田町商店街もそうだ。

仕事がらみで、オレはなぜか商店街によく出会う。意図していくことはないが、そんなふうに、何かの偶然で、知らない街の知らない商店街を歩くのが、嫌いではない。

おそらく、商店街には、高度成長期前、まだ日本人みんなが持っていた、互いへのやさしさや温もりが残されているからだと思う。三間ほどもないような狭い道路に向かい合い、道沿いに軒を連ねる商店街は、そのまま暮らしを生きている人々の共同体のようなものだ。それが、人間の感触をふらりと訪れた者に強く感じさせるのだろう。

高齢化、少子化でこうした商店街がどこまで生き延びられるかわからない。昨日、銀座にまた、日本発上陸のアバクロが登場した。銀座に次々に手頃感、値ごろ感のある若者向けの大型店舗が登場し、人々の関心を集めながら、こうした高度成長期を支えた商店街が消えていく。

地域のつながりや生活者同士のふれあいの中で消費が生まれ、生活情報が交換される商店街が失われることは、そのまま、子ども、女性、高齢者への生活支援と情報が失われていくことなのだ。

困ったことがあったら、ふとその土地に詳しい商店街の人から子育て支援の情報や結婚、出産、育児に関する情報がもらえる。高齢者を抱えて、悩んでいる人のための相談窓口、要介護の申請に必要な手続き。そうした情報を生活の中に流してくれるのも、かつては商店街だった。

いつも買い物に来る人の顔が見えなければ、「どうしたのかしら」と心配することができ、反抗期の子どもの愚痴や甲斐性のない夫の愚痴、うまく言ってない舅や姑の愚痴を吐き出せる場が、商店街だった。

その中で、子育て、夫婦、親子、仕事といった生活全般のサポートが自然とできていたのだ。

それらを捨てて、地域性も、購買者同士のつながりもなく、商品という物とだけしかつながらない生活消費のあり方がもてはやされる国は、果たして確かな国なのだろうか。