高齢者に冷たい社会
昨日は、午後からボランティアでお世話になっていた責任者のMさんの送別会。
ご主人が糖尿病で、血管がボロボロになり、腎臓疾患などの合併症を併発して、仕事ができる状態ではなくなり、やむなく、Mさんが生活を支えるために、保育施設でのパートを始めることになったらしい。
もともと幼稚園の教諭をしていたという経験と資格もあって、60歳での社会復帰は至難なところ、幸い、保育施設でのパートが決まったという。しかし、時給はそう高くないだろうし、これからの老後のことを考えると、あれこれ心配なこともあるだろう。
お子さんがなかったことが、Mさんの苦労を大きくしている。子どもに頼れる部分があれば、少しは負担も少なかっただろうに…。などと、自分は、ちっとも親の世話もできないくせに、そんなことを考えたりした。
だが、Mさんは、そうした自分の心配より、50人以上の関係者が集まってくれたことに、痛く感動し、すみませんと、ありがとうございますの連呼だった。
60過ぎても老後の安泰が見えない。そんな時代、そんな社会…。からくも定年退職まで逃げ切れ、老後の保障がそれなりに手当てされるのは、おそらく、サラリーマン世帯のこの60代団塊世代が最後になる。
しかし、それもわずか。自営業を長くやっていた人やサラリーマンでも社会保険が充実していなかった中小企業の人などは、そうそう楽な老後があるわけでもない。資産があれば別だろうが、多くは、老後を生きていくのにやっとだ。
そこに、こうした夫婦の健康問題、生活問題が出てきたら、高齢に鞭うって、働き続けるしかない。
せめてもの救いは、Mさんがもともとやりたかった仕事だということ。収入は若い頃のようにいかなくても、自分の技能や経験が生かせるという意味で、そこには生きがいもやりがいも生まれる。
定年65歳論が広がり、法制度もそれにあわせようという動きがある。確かに、一昔前と違い、最近の60代、70代は元気がいい。その元気を生かし、高齢者でなければできない仕事の場を創造するというのも、大事なことになってきている。
しかし、それも、コツコツ働いても老後の安心がえらない時代になってしまったからだ。
高齢者の様々な問題を見聞きしたいり、自分の周囲にいる高齢者のことを思うと、本当に、この国は、高齢者にやさしくない社会だと思う。
単に生活の不安があるというだけでなく、お年寄りが大切にされていない。若い世代や中高年の、元気で働けたり、生活できる人間たちには、都合のいい社会だが、そうではない弱い人々が生きられない社会。
それは、女性や子どもによってもやさしい社会ではない。身障者や病人、健康を害した人々にとっても不親切な社会だ。
これまでの日本は、強い人、生き抜ける人を照準に合わせた社会づくりを基本としてきた。その照準に乗れない人間を、本人の努力が足りないからだと批判し、切捨ててきた。だから、差別や人権の問題が、依然、この国では建前でしかない。
人が住みやすい社会とは、社会的に弱い人々の生活に照準を合わせた社会だ。弱い人々を守り、大切にするという社会風土や精神性があれば、それは、多数の人々にとってのよき社会になる。それならば、応分の税負担も仕方ないと思え、税負担がきつい人々には、公的安心を付与しようということになる。
そのシステムがまったくないところで起きた、市場原理主義の競争社会。
小泉・竹中路線のそのつけを、あんぽんたん安倍、麻生の愚策のつけを、この国は、まだ支払い続けなければならない。
ご主人が糖尿病で、血管がボロボロになり、腎臓疾患などの合併症を併発して、仕事ができる状態ではなくなり、やむなく、Mさんが生活を支えるために、保育施設でのパートを始めることになったらしい。
もともと幼稚園の教諭をしていたという経験と資格もあって、60歳での社会復帰は至難なところ、幸い、保育施設でのパートが決まったという。しかし、時給はそう高くないだろうし、これからの老後のことを考えると、あれこれ心配なこともあるだろう。
お子さんがなかったことが、Mさんの苦労を大きくしている。子どもに頼れる部分があれば、少しは負担も少なかっただろうに…。などと、自分は、ちっとも親の世話もできないくせに、そんなことを考えたりした。
だが、Mさんは、そうした自分の心配より、50人以上の関係者が集まってくれたことに、痛く感動し、すみませんと、ありがとうございますの連呼だった。
60過ぎても老後の安泰が見えない。そんな時代、そんな社会…。からくも定年退職まで逃げ切れ、老後の保障がそれなりに手当てされるのは、おそらく、サラリーマン世帯のこの60代団塊世代が最後になる。
しかし、それもわずか。自営業を長くやっていた人やサラリーマンでも社会保険が充実していなかった中小企業の人などは、そうそう楽な老後があるわけでもない。資産があれば別だろうが、多くは、老後を生きていくのにやっとだ。
そこに、こうした夫婦の健康問題、生活問題が出てきたら、高齢に鞭うって、働き続けるしかない。
せめてもの救いは、Mさんがもともとやりたかった仕事だということ。収入は若い頃のようにいかなくても、自分の技能や経験が生かせるという意味で、そこには生きがいもやりがいも生まれる。
定年65歳論が広がり、法制度もそれにあわせようという動きがある。確かに、一昔前と違い、最近の60代、70代は元気がいい。その元気を生かし、高齢者でなければできない仕事の場を創造するというのも、大事なことになってきている。
しかし、それも、コツコツ働いても老後の安心がえらない時代になってしまったからだ。
高齢者の様々な問題を見聞きしたいり、自分の周囲にいる高齢者のことを思うと、本当に、この国は、高齢者にやさしくない社会だと思う。
単に生活の不安があるというだけでなく、お年寄りが大切にされていない。若い世代や中高年の、元気で働けたり、生活できる人間たちには、都合のいい社会だが、そうではない弱い人々が生きられない社会。
それは、女性や子どもによってもやさしい社会ではない。身障者や病人、健康を害した人々にとっても不親切な社会だ。
これまでの日本は、強い人、生き抜ける人を照準に合わせた社会づくりを基本としてきた。その照準に乗れない人間を、本人の努力が足りないからだと批判し、切捨ててきた。だから、差別や人権の問題が、依然、この国では建前でしかない。
人が住みやすい社会とは、社会的に弱い人々の生活に照準を合わせた社会だ。弱い人々を守り、大切にするという社会風土や精神性があれば、それは、多数の人々にとってのよき社会になる。それならば、応分の税負担も仕方ないと思え、税負担がきつい人々には、公的安心を付与しようということになる。
そのシステムがまったくないところで起きた、市場原理主義の競争社会。
小泉・竹中路線のそのつけを、あんぽんたん安倍、麻生の愚策のつけを、この国は、まだ支払い続けなければならない。