秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人を許す心

人は未熟だ。

それに甘えてはいけないし、だからといって、自分がダメな人間だと自己否定ばかりするのはよくないが、未熟である自分を自覚することはいくつになっても大切なことだと思う。

実は、オレのHPが一週間前からヘタってしまっている。アップされているデータに問題はないのだが、更新用データが破損したのだ。

オレのHPは飲み仲間の女性デザイナーが、3年前、オレがひとりで立ち上げたHPを見て、これでは見づらいと、ボランティアで表紙を組み立ててくれたもの。ヘタったデータを自分で何とか修復しようとしたが、かえって、ひどい状況になり、昨夜、ヘルプの笋鬚垢襪函△舛腓Δ廟鳥海凌渊餞曚僕茲討い襪箸いΑ

顔を合わせるのは、確か1年ぶりくらい。ちゃらちゃらと見て、こうすればいいのよ。なるほど。作成したデータがHMLTだから、オレがいくらあれこれいじったところで、おおもとのデータを触らなければ修復できるわけがない。

4ヶ月ほど前にハードディスクに保存していたデータを引っ張り出し、簡単に修復はできたものの、しかし、現在のデータに書き換える作業が出てきた。昨夜はその作業を彼女が帰った後、遅くまでやる。

女性デザイナーのRは、純でいい奴なのだが、思ったことを全部言葉にしてしまうタイプ。それに思い込みが強い。それでいて、人がいいので、言いたいことを我慢し、不満や怒りを溜め込んでしまうところもある。そんなことで、子どもの頃から他人とうまくやれなかったらしい。

その大きな原因は、母親との関係。虐待を経験している。

この数年、デザインワークのための機器の変換で、高価な機材を導入したものの、それに見合う仕事は減り、長引く不況の中、法人とはいえ、一人でデザイン作業をやる奴のところへ舞い込むのは、理不尽といってもいい価格や納期のもの。結局、デザインで食べていけない状態になり、いまは、青山にあった事務所をたたみ、派遣の仕事をいくつもこなして凌いでいる。年齢50歳では、転職の正社員採用の道はなかったらしい。

仕事がうまくいかなかったのは、経済情勢の影響が大きいだろう。オレのほかの友人のデザイナーも業種転換を進めている人間がいる。個人経営に近いデザイン事務所は広告の激減やIT戦略の普及で、平面媒体だけでは食っていけなくなっている。

しかし、奴の話を聞きながら、仕事の低迷は、もしかしたら、母親との関係が奴の困難のおおもとになっているのではないかという気がした。

奴には、心の中に母親への憎悪がある。しかし、この数年で、母親が認知症になってしまった。今度は、すがるように甘える母親になった。しかも、自分の発言や行動に責任がとれない状態になって。奴は、それをやり逃げ、という。虐待をして、その虐待の事実も自覚できない状態に勝手になってしまった、その思いからだろう。

下の弟夫婦と2世帯住宅で暮らしているが、毎日8時間も愚痴や不満を聞いて欲しいと電話してくる。これまでの母親への憎悪を抑え、それにやさしく対応しなくてはと、心根のやさしい奴は思う。当然、ストレスがたまり、仕事が手につかない。金銭の苦労もあり、その苦しみは相当なものだと思う。何か前向きに仕事の困難を乗り切ろうとしても、心に重い鉛があっては、なかなかそうはなれない。

心がそんな状態では、仕事がうまくいくわけがないのだ。しかし、そうしたことも、まだはっきりと自覚していはいないが、奴はわかっている。青山の図書館にいっていたのも、アダルトチルドレン状態にある自分をなんとかしたくて、心のケア関連の書籍を探していたというのだ。

人は困難のとき、無意識にその解決の糸口にかすかにふれている。しかし、心が動揺して、苦しみの最中にあると、それのふれていている感触が、これが救いへの道だとはっきり自覚できない。しかし、それだけでも、解決への始まりにいるということだ。すでに奴は、行動を起こしている。

オレがそういうと、奴はきょとんとしていたが、話をするうちに、なんとなくオレのいわんとすることはわかってくれたようだった。

おそらく、これまで、奴は母親の問題をずっと棚上げにしてきている。一番、ふれたくないし、ふれれば、複雑な心の葛藤と向き合わなくてはいけないからだ。その結果、母親が認知症になり、話もまともにできない状態で、これまで先送りしてきた自分の問題に、がつんと直面してしまった。その動揺は、オレの想像を超えているに違いない。

それを必死で取り繕ろうとするから、一層、人との関係に虚しさを感じる。オレのような人間ならと、死んでしまえばいいと、毒を吐く。それでいながら、そんなことを考えている自分は嫌な、ダメな人間だと自分を責め続けている。

認知症となってしまった母親とどう向き合うか、つまり、それは、母親との関係を奴がどう生き直すかにかかっている。いまはいろいろな試練で心がいっぱいで、とてもそんなゆとりはないとは思う。しかし、その苦しさの中で、認知症という、もはや過去の親子関係を責めることもできない状態から学ぶしかないのだ。つまり、自分の中にまだある憎悪を彼女自身が乗り切るしかない。

アダルトチルドレン、幼い頃から両親からの虐待を受けると親への愛ゆえに生まれる、自己否定と親への憎悪の間で心が揺れ続ける。思春期にくると、それが非行や暴力につながることもあるし、親に見えないところでの自傷行為となる。リストカットも薬物依存も、セックス依存、買い物依存など、依存症にもそれが現われる。

だが、心の解放を求めて、そうした行動をとっても、心の谷間を生めることはできない。物では埋められないからだ。こわくて、自分と向き合っていないからだ。それが一層、依存傾向を強くする。

人は苦しみの原因は、自分でなく回りにあると思う。それが深く重いものであればあるほど、そう思う。そう思わなければ、いま自分にふりかかえている苦しみに耐え切れないからだ。それが親子関係や男女の色恋であれば、なおそうなる。互いへの甘えがあるから。

しかし、奴には気づいてほしい。母親だって、子どもにそうしたふれあい方しかできないことで、何も感じていなかったはずはないのだ。母親自身が子どもとどうふれていいかの育ち方をしていない場合もある。虐待は否定すべきことだが、母親の中にも、子どもにはわからない、悲しみや葛藤がある。ただ、母親を責め続けてたところで、何の問題の解決にもつながらない。苦しみは、ますばかりだ。


母親は認知症という姿で、奴に許しを求めているのではないのだろうか。いくらきばっていても、所詮、こんな親でしかなかった…。ごめん、すまないとは言葉にしたことはないかもしれないが、できなかったがゆえに、認知症という病を得ることで、それを娘の奴にしているように、オレには思えてならならい。

それに応えてやれる自分になれれば、奴の苦しみの多くが違う姿になって現われるのではないかとも思うのだ。苦しみは苦しみとしてあったとしても、それに向かう心のあり方が変る。少なくとも、後ろ向きではなくなるような気がする。

人を許すということは、途轍もなく難しいことだ。しかし、人を許すということは、自分を許すことでもある。