秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

『日本の難点』を読む

大阪出張撮影の行きかえりの新幹線の中で、宮台真司の『日本の難点』(幻冬舎)を読む。

結婚し、子どもが生まれ、父親になった宮台の思想信条、生活意識が見えておもしろかった。思想的に強化されてた部分と生活に安定と奥行きが生まれて、落ち着いた部分、初めて直面している子育ての現実に戸惑い、かつ、思い込みを持っている、ありがちなお父さんの部分が見えるからだ。日本の難点は、宮台自身が生活実感を持った中での、私的生活課題を通じて世界を見ようとした、初めての著書といえる。

3年ほど前だったが、丁度、子どもができたという時期に、二人して江ノ島から船に乗り、海の上で、あれこれ政治や文化について語っていたとき、ふと、宮台がオレの子どもに会ってみたいとつぶやいた。こんなへんてこなオヤジを持った子どもが、どんなふうに育ち、どんなふうに、このオヤジを受け入れているのか、確かめてみたい。そんな気分だったのだろうと思う。

女の子が欲しいという宮台に、オレは男の子と女の子では、えらい違いがあり、女の子は大変だぞと脅した。いい加減なオヤジを持った女の子の、思春期の父親への反発はぐさりとくると、男の子との違いを伝えたのだ。結局、生まれたのは女の子だった(笑)。

データから学ぶ。日本屈指の頭脳である宮台は、一見、知識の深さだけで勝負しているように見えるが、実は、データを大事にする。学者だから、事例も求める。そこには、宮台自身の弱さへの自覚、謙虚さがある。初めての子どもを持つことになり、今後のあり方をどこかで模索していた宮台は、オレの子育てから学べるところがあれば、学ぼうという思いだったのだ。

いまオレが酒豪編集者Rと取り組んでいる書籍の企画の骨には、どうすれば、利他精神の回復ができるかという一大テーマがある。宮台の著書にも、それと同じものがある。格段示し合わせたわけでもないが、切り口や視点の違い、事例についてのとらえ方の違いはあっても、いま、この国に、利他の回復が必要なことを強く感じている点では、伊達にオレも宮台も一緒に仕事をしてきたのではないなと思い当たる。

オレの原稿は論が勝ちすぎているという指摘があったらしいのだが、宮台が必死にわかりやすい文章と内容を心がけながら、その質は、知識の深さや量から、オレの原稿などより遥かに難解だし、哲学、社会学、心理学、現象学などの基礎知識がない人間には、読解するには至難な本だ。

また、あえてそれを避けたのか、具体的処方箋の部分は、方向性だけを示すに留まっている。おそらく、読者にそれを考えてもらいたいという思いもあったのだと思う。まともな人間なら、宮台が示した方向性に、自分の言葉と行動で決着を付けることくらいはできる。そうした読者をまた、宮台も対象としている。

それくらいのことが自分でやれない奴は、この本を読んでも先へは進めない。エリート教師、宮台らしい終わり方だ。同時に、そこから先を具体的に述べれば、あらぬ誤解や誤謬が生まれることも、これまでの経験でわかっていたからだろう。

教育というのは、そもそも不遜なことをやろうとしている。いわば、マインドコントロールの一面があり、法や秩序、その背景となっている倫理や道徳を、大人=権力があるものたちが、意図して社会の枠組を守るために、伝え、洗脳することを前提としている。これは、ルソーがすでに指摘している通りだ。

その不遜さをどれだけ抑えられるかは、教育が種を蒔くことに徹することができるかどうかのだ。芽を出し、枝を伸ばし、葉をつけ、その木々の様態についてまで、関りを持ち、示唆を与え続けるというのは、教育がすべきことではない。そこには個人の尊厳、個人の自由が担保されないからだ。自己決定、自己表明の能力が削ぎ落とされる。いまの管理教育は、それをやる。だから、子どもたちに、若い社員たちに、ストレスが生まれている。脆弱なコニュニケーション能力しかない連中が登場する。

しかし、ここで常に問題になるのは、一定のルールを保つことと、個人の尊厳と自由とをどのように調整するか、バランスシートを保てるかだ。教育が一枚岩になると、このバランスシートが容易に崩れる。

だから、教育のチャネルは多様でなくてはいけない。あるチャネルでは、強固に倫理や道徳を問うても、ここでは、それを守れない人間が救済されるという教育がなくてはいけない。硬軟あわせた教育の場とチャンスが保障されなければ、子どもたちは一辺倒な情報しか持てない。それが、実社会での適応能力を削ぐ。

誤解を怖れずにいえば、大人へと成長する過程でのストレスを解放するために、宿=制度化された売春施設が恒常的に村にあったように、夫を失った女性の生活苦を助けるために「夜這い」や「村の女」があったように、性的教育の場さえ、設けられていた、かつての教育の多様性が必要なのだ。オレの下ネタから革命をは、それをいっている。

学校、家庭、地域が、この多様性を失ったところに、いまの教育、社会問題の多くの難点は生まれているのだ。だが、下ネタから革命をと聞けば、眉をひそめる連中は圧倒的に多い。

同時に、それはなんでもありの、セクハラもパワハラも許される世界と勘違いする、あんぽんたん男たちがいる。飲み屋でちょい親しくなれば、女性の胸や体を触っても、許されると思う輩がいる。

女性がその場を納めようと、必死で、笑顔でやり過ごしながら、どれほど不快な思いを抱き、傷ついているかがわからない。それを見ている女性たちにも、中には男性にも、強い不快感を与える。男にとって、冗談や戯言のつもりでも、女性には、体をさわられることへの生理的な拒絶反応がある。言葉にできる女性はいいが、それができない女性は、心身ともに傷つくのだ。

これも教育が一枚岩で、そうしたことは許されるという歪な性的情報と体験の中でつくられている。下ネタから革命をは、そんな軽薄なあんぱんたんのためにある言葉ではない。高い倫理と道徳の中で語られるがゆえに、力を持つのだ。

人の痛みがわかる教育。いま人々が求めている声が聞こえる行動。他者のそれに共感がないところで、利他はいえないし、実行できない。