秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

台風の教え

台風が関東を通り過ぎた。台風の後には、南風のフェーン現象

台風が本土に上陸するのは、2年ぶり。各地に被害は出たが、36年前の伊勢湾台風並みだというのに、思いのほか、被害が少なかった。

それだけ、台風に対する防災対策ができあがってきたということだろう。

オレが子どもの頃は、夏から秋にかけ、台風は歳時記のひとつだった。昔は、台風といえば、九州。いまのように太平洋岸をかすめたり、関東を直撃するような進路をとるようになったのは、この数年のことだと思う。

だから、大きな台風がたまに、本州、関東を直撃すると、当時は被害が甚大だった。おやじが、「あっちの人は、台風になれとらんけんねぇ」と、そうしたニュースを見るたびに、つぶやいていたのを覚えている。

台風の被害もわからない小学生の頃は、台風がくるのがオレは楽しみだった。福岡管区気象台から予想が発表されると、その数日前から、近所の人たちは、屋根やひさし、家の窓を手入れし、弱いところには、板を打ち付けて、防災の準備に追われた。そして、缶詰やロウソクを買い込んだ。当日になると、おふくろは、おにぎりをつくり、非常食の準備に追われた。

台風がくると、まちがいなく、停電したし、木造家屋ばかりの時代だから、強い風の吹き込んでくる中で、火を使うのは危険だった。

しかし、そうした準備をすることが、オレには、いつもの生活とは違い、まるで、どこかに篭城するような、キャンプでもやるような感覚で、なんか家族が一致団結している感じがして、楽しかったのだ。

うちの家も床下浸水したりする被害もあったが、そうした被害が出ても、季節のこの時期には仕方がないと、台風が過ぎた後は、近所みんなで復旧にあたっていた。

川の水流に流された橋をみんなで、ロープでひっぱり、必死に流されないようにもしたし、岸からはずれたそれを、また、みんなで、岸にいわえるという作業も、近所の男たちがやった。

子どものときは、それなりに大きな橋だと思っていたが、後年、大人になって、その場所をみたとき、幅、2メートルほどしかないのに、驚いた記憶がある。子どもの眼と大人になっての眼は、大きさがそんなに違う。

天災がある度に、オレは思うのだが、結局、その天災を防いだり、被害が出たものを復旧する本当の力は、そこに住む人々の連帯や協力しかないのではないだろうか。

ライフラインの回復には、電力会社や水道局などの力がいるが、生活周辺の回復には、そこに住む人々の力の結集がいる。

結局は、そこで生活している人にしか、生活の場を守り、回復していく力はない。それなのに、この20年以上、この国の歩みは、地域の絆やつながりを寸断してきている。

近所付き合いは、面倒くさいことも多い。ときには、言いたい放題いって、諍いがおきることもある。しかし、すぐ近くに生活し、互いの暮らしが接近していれば、人間同士のぶつかりあいや行き違いがあるのは、当然だ。

しかし、その行き違いや対立の数だけ、いざというときに、他人事ではないという思いも深まっていたと思う。言いたいことがいえるというのは、本当に幸せなことなのだ。

それを希薄にし、失ってきているところに、いまのこの国の弱さも、冷たさも、愚かさも潜んでいるように、オレは思う。

お行儀のいい挨拶とお行儀のいい笑顔は、優等生であれ、本当に人の心に届くものではない。