杓子定規なオタク時代
文化庁、芸術振興財団の映画支援事業の説明会にいく
前回は演劇、今回は映画。毎年恒例の説明会二つ。昨年は、顔を出さなかったが、今年は、結局、二つとも顔を出す。
永田町の全国市町村会館で開催されたのだが、雨で自転車は使えず、徒歩。道すがら、気になる店の前を通る。
少し前から気づいていたのだが、青山ツインタワービルの三菱東京UFJの隣に、弁当ハウスができているのだ。繁盛しているのだが、弁当単価は安い。営業時間は、昼のランチタイムだけなのだが、地代家賃を考えたら、やっていけるのかしらと思う。
そんなことを頭の隅に考えながら歩いていると、なんと、246沿いの赤坂見附駅近くにも、同じようなハウスができているではないか。
これも、昨今の不景気を繁栄した、新しいビジネスなのだろう。確かに、700円から400円までの多様な弁当が揃っていて、味噌汁、ふりかけまでついている。これなら、節約を余儀なくされている中年サラリーマンも、あれこれ金のかかる若いOLなどには人気に違いない。
これまでは、どこかの店に入ってランチが当たり前だったのが、少しでも節約しようと弁当に人が群がる。オレがよく行く銀座などは、値段はそう安くはないが、1000円から1300円で、バイキング形式の店がはやっている。毎回というわけにはいかないのだろうが、節約暮らしの中で、週に何度かは、きっちり昼食をとる。かしこいライフスタイルが定着している。
景気が悪い。といいながら、場所によるが、客単価4000円程度の店が大ヒットしている。この国の人々の懐は、本当に、極端な格差に見舞われているとしか、いいようがない。
演劇もそうだったが、映画の支援説明会も満席状態。やはり、どこも制作資金の調達に苦しんでいるのだ。
ちゃらい映画やCGに頼った内容の希薄な映画が次々に公開される中、大資本に頼ることのできない制作会社は、どこも、必死に表現の場を確保しようとしている。
ここにも、この国の文化の格差が生まれている。
文化庁の支援事業にしても、支援事業とはいいながら、その運用は、極めて官僚的で、融通がきかない。
その融通のきかなさが、文化芸術においても、格差の要因の一つではないかと思う。
いまの世の中、杓子定規に物事をとらえ、当たり障りないように業務をこなすということが普通になっている。当たり障りないどころか、どうでもいいような、文字の一言一句、数字の細かな単位にこだわり、それが正確であるかどうかが問題で、出される内容や深さを吟味しようとはしない。
辻褄があっていれば、それでよしとする器量と才覚が微塵もないのだ。書類書式にこだわり、形式にこだわり、立場にこだわり、周囲の眼に縛られ、あれはいけない、これをしてはいけないと自己規制する。
人間すべからくいい加減な存在。自分だってミスとすることも、杓子定規ばかりでは生きられない。
あまり気を回して、自由さを失うより、気を回さないことで、得られる奔放さや自由さの方が、人は生きやすい。人は、ええかっこしいばかりしているから、奔放さや自由さに翻弄されているだけなのだ。
自分の殻に埋もれる、オタク野郎ばかりのこの時代、ええかっこしいの正義を正義と思っている奴らには、傷つくことをさせなければ、成長も、自由の自己獲得もない。
前回は演劇、今回は映画。毎年恒例の説明会二つ。昨年は、顔を出さなかったが、今年は、結局、二つとも顔を出す。
永田町の全国市町村会館で開催されたのだが、雨で自転車は使えず、徒歩。道すがら、気になる店の前を通る。
少し前から気づいていたのだが、青山ツインタワービルの三菱東京UFJの隣に、弁当ハウスができているのだ。繁盛しているのだが、弁当単価は安い。営業時間は、昼のランチタイムだけなのだが、地代家賃を考えたら、やっていけるのかしらと思う。
そんなことを頭の隅に考えながら歩いていると、なんと、246沿いの赤坂見附駅近くにも、同じようなハウスができているではないか。
これも、昨今の不景気を繁栄した、新しいビジネスなのだろう。確かに、700円から400円までの多様な弁当が揃っていて、味噌汁、ふりかけまでついている。これなら、節約を余儀なくされている中年サラリーマンも、あれこれ金のかかる若いOLなどには人気に違いない。
これまでは、どこかの店に入ってランチが当たり前だったのが、少しでも節約しようと弁当に人が群がる。オレがよく行く銀座などは、値段はそう安くはないが、1000円から1300円で、バイキング形式の店がはやっている。毎回というわけにはいかないのだろうが、節約暮らしの中で、週に何度かは、きっちり昼食をとる。かしこいライフスタイルが定着している。
景気が悪い。といいながら、場所によるが、客単価4000円程度の店が大ヒットしている。この国の人々の懐は、本当に、極端な格差に見舞われているとしか、いいようがない。
演劇もそうだったが、映画の支援説明会も満席状態。やはり、どこも制作資金の調達に苦しんでいるのだ。
ちゃらい映画やCGに頼った内容の希薄な映画が次々に公開される中、大資本に頼ることのできない制作会社は、どこも、必死に表現の場を確保しようとしている。
ここにも、この国の文化の格差が生まれている。
文化庁の支援事業にしても、支援事業とはいいながら、その運用は、極めて官僚的で、融通がきかない。
その融通のきかなさが、文化芸術においても、格差の要因の一つではないかと思う。
いまの世の中、杓子定規に物事をとらえ、当たり障りないように業務をこなすということが普通になっている。当たり障りないどころか、どうでもいいような、文字の一言一句、数字の細かな単位にこだわり、それが正確であるかどうかが問題で、出される内容や深さを吟味しようとはしない。
辻褄があっていれば、それでよしとする器量と才覚が微塵もないのだ。書類書式にこだわり、形式にこだわり、立場にこだわり、周囲の眼に縛られ、あれはいけない、これをしてはいけないと自己規制する。
人間すべからくいい加減な存在。自分だってミスとすることも、杓子定規ばかりでは生きられない。
あまり気を回して、自由さを失うより、気を回さないことで、得られる奔放さや自由さの方が、人は生きやすい。人は、ええかっこしいばかりしているから、奔放さや自由さに翻弄されているだけなのだ。
自分の殻に埋もれる、オタク野郎ばかりのこの時代、ええかっこしいの正義を正義と思っている奴らには、傷つくことをさせなければ、成長も、自由の自己獲得もない。