秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ぐちゃぐちゃを生きぬく

震災でいろいろなものがぐちゃぐちゃになった。
 
それは家屋や家族、親族、縁者、生活の基盤、仕事、地域、自治体…いろいろあるが、とにかく、みんなぐちゃぐちゃになった。
 
そのぐちゃぐちゃになった現実が、人々に喪失感も悲嘆も落胆も生んでいる。同時に、ぐちゃぐちゃになったものをどう片付け、整理し、整備すればいいかに戸惑いと困惑、ため息が生まれている。
 
それは、被災した方たちだけでなく、それを支援する人、支援する団体、行政、企業、政治、いや国全体がぐちゃぐちゃになった現実の前で、手をこまねいたり、どこから手をつけていいのか、いや優先順位はこうだ、いやいやこちらが先だとやっている。
 
その中で、あいつがいけない、こいつはどうだ、いやそうじゃない、そっちの責任だ、いやおまえの責任だ…ということが生活者のレベルでも、政治、官庁、自治体のレベルでも起きている。
 
すべからく、ぐちゃぐちゃをどうしていいのかのアイディアやビジョンがないからだ。アイディアがビジョンがないから、とりあえずは、こうなった責任やそれがないことを互いにぶつけ合う。人とは困惑したとき、必ずといっていいほど、それをやる。
 
それは、いまどこから手につけようと計算ばかりしているからだ…と思うのはオレだけだろうか。
 
本来、オレたちの日本人は、世界やマスコミや人々がいうように、そんなに整然、慄然、毅然とした国民だったのだろうか。いや日本人だけでなく、人というのは、そんなに人が思うほど、律儀で、行儀よく、手際のいいものだろうか。

ちょっと昔のこの国の歴史や文化、人々が生きていた生活の現実を見れば、日本人自身が思うほど、海外の人が思うほど、日本人は整然とはしていない。だから、大きな被害に弱い町をつくっていたし、それに対する深慮遠謀もなかった。と考える方がいまの現実がよく見える…とオレは思う。
 
ならば、ぐちゃぐちゃをぐちゃぐちゃのまま、どうすればいいかを考えればいい。かっこつけて、整然ときちんと、美しくなどと平時にあっても満足にできていなかった姿を幻のように追いかけるのではなく、ぐちゃぐちゃになっている現実をそのまま生きればいい。
 
いわきジャーナルのSさんから福島でも有数の米問屋さんが被災し、多種類の米がぐちゃぐちゃになって、困っているという連絡をくれた。なんとかそれを捌く、いい知恵はないか…。
 
ならば、ぐちゃぐちゃのまま梱包し、配分はいろいろだけど、復興を支援してもらう米として人々に提供すればいいとその会社の経営者も思っていた。それしか捌く方法がないからだ。
 
米問屋さんに問い合わせしたら、関東地域は風評被害はいけないと白米は受け入れてくれているらしい。どころが、大阪など西日本地域には風評の拒絶反応があるという。これは、福島の米というだけでなく、東北全体の米に対してもだ。
 
ならば、二次被災を受けている東京や関東、そして、震災被害のなかった日本海側の東北地方で、ぐちゃぐちゃを共有すればいいのだ。赤米、白米、玄米、黒米がまじった五穀米。普通の炊き方で十分食せるという試食もやった。ただ、配分はまちまち。
 
だが、それでいいではないか。これは復興支援のための米だ。オレたち日本人がぐちゃぐちゃを生きぬいてみせるぞ…という決意の米だ。原価で売れればと考えているその経営者は、そこに500円の売値を乗せて義援金にしようと考えている。
 
ぐちゃぐちゃでも、それができる…その心意気の手伝いをやろう。