秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あきらめない

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Norikoに誘われ、新宿のシアターサンモールで、ダンカンとグレート義太夫がやっている劇団の芝居を観にいく。

昨今、ありがちな内容のない芝居。それでも、出演俳優が多かったせいか、チケットをノルマでさばいていたのだろう、狭い客席は満席。こうした芝居を観る度に思うが、俳優の技量の低さ、台本・演出の稚拙さは眼に余るものがあるというのに、客が入っている。

こんな芝居で客は、本当に満足しているのだろうか。オレには、出演している俳優の気持ちも、観に来ている観客の気持ちもわからない。こんな芝居をやるために俳優になったのか。貴重な時間をこんな芝居のために使いたかったのか。小劇場、やる側も観る側も質が落ちている。説明過多の芝居ばやり。

昔、小劇場から優秀な劇作家や演出家、俳優が登場したのは、夢のまた夢。

オレにしてみれば、ほぼ一年ぶりに連絡をくれたNorikoと会うことが主な目的だったから、奴がギリがあって観ようと思った芝居に付き合うことは、別に苦でもなんでもなかったのだが、芝居は最低だった。

丁度、一年ほど前、奴に連れていかれた、寺山修司風芝居のよさが、再び光る。

久しぶりの新宿。西麻布界隈か青山でメシでもと思ったが、昔、行きつけだった店が、何店かあるので、とりあえず、キリンシティで店開けを待って、車屋で焼鳥を食べる。30代後半から40代の頃まで、週に1度は顔を出していた店。

その後、やはり週1は、顔を出していた新宿とは思えないバーに立ち寄る。4店舗ほどある中で、女子を連れていくには格好のDANCEがパーティで貸切状態。仕方ないので、それに似た、パールバーに行く。ピアノバー形式は、新宿では珍しい。Cry me the riverをリクエスト。いいアレンジ。

前日も朝6時まで仕事だったNorikoは、マチネー公演の早い時間に駆け足できたから、後半は、眠そうな雰囲気。それでも奴は、自分から帰りたい、眠いとは言わない。みかけ、誤解されやすいが、実は、日本女子のたしなみを知っている。察して、まだそう遅くない時間、タクシーを拾い、帰す。

途中、話の流れで、ワーキングプアの話題になる。アパレルから夜の飲食に転じ、しばらくは昼夜の掛け持ちをこなしていたが、身体も悪くし、夜に絞ったものの、生活のために飲食も掛け持ちしなくてはいけない状態。事情があってそうなったのだが、あれこれ持病を抱える奴にしてみれば、楽な仕事ではない。

つかの間、海にいったり、美術館にいったり、仕事終りに知り合いの飲食で飲んだりと、気晴らしや気分転換は心がけているらしいが、生活に追われていては、心底、心休まることはないだろう。

正社員で30過ぎた、居場所のある人間とそうではない流動性を生きる人間の格差の現実。数年先のビジョンが見えない。将来の絵が描けない。人はそれを本人の努力が足りないと批判するが、それだけではない壁がこの社会にはある。

苦しく、不本意な生活でも、夢や希望があれば、まだ自分を保つことができる。しかし、それが見えなくなる。あったはずの夢や希望が、現実生活をみつめると途轍もなく不可能に見えてくる。そんなとき、人は、気持ちがくじけることもある。

生活のためだけに仕事をする。いつ失われるか不安の中で、とりあえず、今日を生き延びるための仕事をする。それは、人間の本来あるべき姿ではない。仕事は、自分や自分の家族を幸せにするためにあるのだ。その権利はだれにも平等でなくてはならない。

まして、お水系となると、あらぬ妄想を抱く男たちも中にはいる。性の対象としての女とだけしか見ない輩もいる。あるいは、金銭を背景とした、支配と隷従という、男にとって優位な関係を求める奴もいるだろう。

だが、もっとつらいのは、まともに一人の女性、人間として評価されても、評価されている人間たちと同じ生活のフレームにいられていない、自分の生活の現実を知ることだ。

人間の矜持として、服装や外見に気をくばり、引け目を感じないように整えれば、人は、他人の生活の大変さや苦しさを見抜けない。相手は、同じフレームを共有していることが当然と思う。それが、そうではない、自分の生活の現実を突きつけることもある。そちらの方がつらい。

ハンナのばばあもいっていたが、女性が地方出身で、定職がなく、親に頼るわけにもいかない年齢となれば、東京での生活は、そう楽ではない。東京出身者でも、親の経済力を当てにできなければ、定職がないというのは、相当につらい。夢と希望を持っているとはいえ、女優の内田も同じような悩みを抱えている。

格差の映画を描いたとき、大勢の非正規雇用労働の連中の話を聞いたが、その多くが、苦しい生活の中で、次第にあきらめに襲われるという。夢や希望はもとより、自分自身の人間としての権利も、考えることができなくなってしまうというのだ。彼らの日々の仕事や立場、周囲の評価を知ると、そういう思いに導かれてしまうことがよくわかった。

人は、だれかに認めてもらいたい。掛け値なしで、自分の可能性や他者と違う有意な点、優れた点を認められたい。それがないところでは、明日への希望が持てないのだ。

唯一、道を切り開くのは、とにかく、あきらめない、投げやりにならないことしかない。それは、ときとして苛酷な要求であることは百も承知だが、あきらめや投げやりで、自分の身体と心を汚せば、つらい思いは、もっとつらくなるだけ。どこかで、踏みとどまるしかない。

それができないときは、自分の思いをあからさまに語れる、夢を持ち続けている人間のところへ行くことだ。それで少しだけ癒され、少しだけ夢や希望が語れれば、人は、あと少しだけ生き抜こうという気になれる。

白馬の騎士は、もはや信じられないだろうが、ドンキホーテのように夢を追い続けるメタボの騎士はいる。

「それがおとぎ話のようなことであっても、希望と夢は、決して色褪せしたりはしない。色褪せるのは、希望と夢をあきらめたときだ」 by メタボの騎士