秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

助け合いのおもしろ理論

あれこれ、滞っていた流れが、動き出し始めている。

結局は、こちらがなんやかや動いていた結果だと思うが、やはり、人は、自発的に、前向きに歩かないと、棒には当たれない。

いつか書いたかもしれないが、オレは、本当に、小学生の頃から、自分でやりたいことを考え、人をたぶらしかし、それまでの常識やルールに歯向かい、始終、痛い思いもしながら、それでも、懲りずに、やりたいことを実現するということに、執着が深い。そのために、周囲にはずいぶん迷惑をかけている。なにか特攻精神みたいなものが、DNAにでも、刷り込まれているのかしら…。

昔と違うのは、常識やルールに逆らいながらも、人の話や意見を聴くようになったこと。

高校時代や高校演劇を指導している頃、そして、劇団をやっていた頃、いやいや、制作会社で役員をやっていた頃も、独立してすぐの頃までは、周囲の意見はほとんど聴かなかった。

高校時代、体育会系体質の演劇部で、OBの意見に従って、演出で大失敗をした経験があるからだ。16歳のオレの舞台初演出は、人の意見に左右され、方針も明確でなく、まして、出演と演出をこなすという、当時の力量からは遠く及ばないことを、無理くりやろうとし、惨憺たる結果だった。現役の高校演劇時代は、失敗の連続だったのだ。

しかし、それが、その後のものづくりに大きな勉強になった。当時からうまくいっていたら、オレは、演出や監督、脚本を書くということで食べていけていなかったと思う。

しかし、失敗しても、そうした重要な役目を任せてくれた、先輩たちには、感謝している。やれそうなのが、オレしかいなかったということもあるが、レベルの低い中で、試行錯誤と挫折をやらせてもらえたのは、大きな財産だった。

以来、作品の責任をとるのは、最後は、演出であり、監督。それが、徹底的に刷り込まれて、オレは、キャストやスタッフに超厳しくなったのだ。自分のイメージに徹底してこだわるようになった。自分がいい格好をしたいからではない。批難されようと、堂々とこれがオレの作品だと、ケツまくれるくらいの根性でやらなければいけないと腹をくくったのだ。

そうすると不思議と、勘がさえるようになる。どこで、どうしなければならないか。うまく段取りがいかないときに、どういじれば、流れがよくなるか。それを理屈ではなく、直感で指摘できるようになった。そして、それが評価を得られることで、オレは、自分のイメージへの確信を持つようになっていった。

だが、同時に人の意見を聴かないで、人を自分から遠ざけたことも多かったと思う。つまりは、孤独。

激しすぎる思いや入れ込みは、ついていけない人間もつくる。かといって、迎合すれば、作品はゆるくなる。その塩梅が難しい。

しかし、理屈でビシバシ切り捨ていくようなやり方は、結局、自分も人も疲れさせる。人には、隙間が必要なのだ。いい加減さも必要なのだ。

今日、メインバンクの担当の営業と作戦会議。その折、この間、区役所で見聞きしてきた、惨憺たる中小企業の現状について話し、歩留まりの悪さは受け入れていかないとギスギスした社会になるという話に、担当者がついてくる。

作戦会議は終わっていたのに、窓口業務が終わった後も、小一時間話し込んでしまった。

オレの仕事がいまの時代、求められるものなのに、金銭的にも、社会的にも評価が薄いことに、担当の営業さんは、義憤を感じてくれているようなのだ。

ひとくさり、社会や教育について語り、彼も共感する。それで話がとまらなかった。

よくリストラや派遣切りで使われる、仕事のできない人間、成果を上げられない人間という枠組み。つまり、生産性という点で、単なる成果主義から見ると、歩留まりを悪くしている人間たちのことだが、実は、これには、おもしろい理論がある。

ある集団で、集団のお荷物になっている連中を排除すれば、成果が上がると思って、切り捨てると、今度は、小さくなった集団の中で、新たに歩留まりを悪くする連中が出現する。それをまた、切り捨てると、より小さくなった集団で、再び歩留まりを悪くする連中が出現するのだ。

つまりは、成果主義である以上、優劣の関係は永遠に残り、いくら純粋培養をしたつもりでも、個々の人間の集合である限り、そこに劣性という歩留まりは必ず出現する。これは、アメリカの経済学でも周知の事実。

しかし、この国は、この徒労ともいえる、リストラ、社員切り、それによる過重労働によって生産性を落としている。

必要なのは、歩留まりを生かすことなのだ。人間が集団を形成し、生きる以上、当然のものとして、歩留まりを受け入れ、それを生産性という視点でなく、人間集団を円滑に動かすための、隙間、緩衝役と見立て、それも必要な役割なのだと生かす知恵だ。

人と人が助け合い、支え合う社会、国、世界とはそういうものだ。単に、一元的になにか正しいと考えられている基準だけで、他者をみれば、いくつもそぐわないところがある。

しかし、これも必要な負担、必要なものという見方をすれば、そして、自分自身、それほどに完璧なのかと振り返れば、情に棹差すことも、流されることがあってもいい。

でなければ、人は生きづらい。それを甘えと否定してきたのが、これまでの社会。ときとして甘えたい気持ちを許しあえる社会こそが、いま必要なのではないのか。

助け合いとはそうした精神に支えられているものだ。