秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

真実は事実の向こう側にある

午前、東映のCプロデューサーにお願いして、プレビュー前の試写に来てもらう。うちの新編集システムに、オレがまだ不慣れで、PC上でしか確認できないからだ。
 
前日、忘年会のあと、2時まで編集作業をやり、3時間ほど仮眠して、ぎりぎり間に合う。基本、大きな修正はなく、珍しく、Cさん、ウルウルきていた。かなり心を打たれた様子。よかった。
 
基本、脚本も監督もやるので、脚本を書いている最中、セリフに込めた思いの丈は本が上がった段階で、オレは終わっている。同時に、本書きの段階からすでに、画角や映像、俳優の演技も決まっている。
 
監督として作品に向き合うときは、自分の作品に驚くほど、冷静で、冷ややか。それができないと、本と監督を同じ人間がやるのは適切ではないと思っている。
 
脚本にのめり込んだままでは、確かな演出などできない。本書きと演出は、まったくの別の知識、別の経験がいるからだ。
 
つまりは、本を書いたときに、大方の反響も、完成された作品の形もオレには見えてしまっている。だが、本では、それを多くの人がビュジュアルイメージで共有できない。なぜなら、オレの画角やカット割りは、多くの人が抱いているイメージと違うからだ。
 
だから、その自分のイメージを開示できて、なるほどね、そうだったの、ああ、こういうことがやりたかったのね、と気づいてもらうには、完成するまで、ひとり孤独を生きるしかない。
 
その孤独が癒されるのは、こうして、おおまかに作品が見れるようになって、Cさんのように、なるほど…と、感動してもらえるときだ。
 
おもえば、この孤独とオレは15歳のときから付き合っている。
 
オレのことを屈折していると批評するやつがいるが、結局、心血を注ぎ、表現の中心にいる厳しさや寂しさ、孤独を体験しなければ、表現に携わっている人間の思いなど理解できるものではないのだ。
 
それが、オレのように、人の弱さや失敗や挫折、差別や偏見にさらされながら、生きる人々を描こうとすれば、なお、理解などされない。
 
社会へのアプローチも制度への変更の要求も、そこから出ているし、オレの生き方の基本もそこにある。
 
いまの時代、いまの世の中、ひとつの願いや信念だけで生きている人間は多くない。ときとして、深い願いや強い信念は、人を寄せ付けない。だが、それは、ひねくれものだから、そうしているのではない。
 
真実を知っているからそうするのだ。世の真実、人の真実を知れば、目の前にある事実ばかりをなぞるような生き方は、きっと潔しとはしなくなる。
 
ラ・マンチャの男がいっている。「真実は、事実の向こう側にある」。