秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

盲人、象をなでる

今日は衆議院議員総選挙投票日。みんな、ぜひぜひ投票にいってください。あきらめない、投げやりにならないで、きっと時代は変えられると信じ、自分の意志と判断を。


昨日は、久ぶりに連絡をくれた、年下の女友だち、Sに、誕生日プレゼントに服を買ってやる。

連絡をくれたときから、予想していたとおり、奴は、駆け引きや算段なしで、だれかに愚痴やわがままをいい、いっぱい甘えを受けとめてもらいたかったのだ。その中で、いまの自分の姿をぶっちゃけたかった…。

恋愛で傷ついて、生活を180度変えて、あれこれ苦しんだ。そこで、自分を守るために、一生懸命な女はやめようとしている。人に対して、一生懸命は報われない、そう思っている。

そのために、軽い女でいようとする。が、しかし。言葉では、軽い女を生きようとしながら、実は、軽い女を生きることに、疲れている。本来の自分が心の中で悲鳴を上げている。

しかし、傷つくのがこわくて、ひたむきで、一生懸命な女に戻ることができない。ブレて、揺れて、さびしくて、何かすがるものが欲しい。

奴の思いを否定せず、反論もせず、聞いてやったが、そこには、いまの逃げの状態で、もしかしたら、うまくやれるのでは、と思っている様子が見えた。甘えだ。さすがに、その一点だけは、明確に否定する。

「うまくいかない、と思う、ではなく、それは、間違いなく、うまくいかないよ。そんなんでうまくいけば、誰も苦労はしない。人と心を通わせるとは、そんなお手軽にできることではない」。


最近の女子はどうして、こうも自立できていないのだろう。オレの回りは、どうして、こうも、男にとって、都合のいい女をやる奴らが多いのだろう。

Sがそうだというのではないが、最近の若い子の傾向は、どこか共通点がある。

たとえば、好きな男にぶっちゃけることもできず、傷つくのがこわくて、あれこれほかの男で紛らし、紛らしているつもりが、紛らしている男たちからすれば、格好の都合のいい女だし、本命の男からすれば、ぶっちゃけないから、男がセックスしたいときだけ呼出せばいい、これ以上はない都合のいい女。

そんな関係に愛も、やさしさも感じられるわけがない。紛らしている男たちを、自分がマジになったとき、切るのもエネルギーがいる。遊びゆえに、あらぬ色恋沙汰を引き起こしかねない。気持ちの行き違いが生まれるからだ。男女のセックスとは、男にも女にも、執着のもととなる。

いくら、せつない痛みや傷ついた心がそうさせているといっても、やっていることは、その辺のヤラセネェちゃんと同じ、いわば自傷行為のようなものだからだ。

体だけの関係で、心のつながりも、触れ合う温かさも実はない。そんなことを数こなしたところで、安心にはたどりつけない。安心なような男がいたとしても、そのレベルで出会っている男に、見てくれのよさはあっても、魅力があるはずがない。その安心は、体だけで結びつく安心。薬物と同じだ。

それもわかっているが、自分に自信がないから、あえて傷つく道を進むことができない。こんな自分はこんなんでいいのだと見切ろうとしている。見切りながら、不安ですがるものを求めている。しかし、それは、すがるものの対象が違うのだ。

結局は、好きなようにやらせて、そこで本人が学ぶしかないことだが、相談される側も、イタサを見せられることは、せつない。幸せになって欲しいと願うからだ。

前にも何かのたとえで、書いたが、「盲人、象をなでる」状態。

ある盲目の男がいた。彼は、これまで象というものを見たことも、触れたこともない。あるとき、その盲人の前に、一頭の象が引き出された。その盲人に、「これは何か?」と問うと、盲人は、それまで自分が触れた物を次々に上げながら、繰り返していった。「これは、人ではない」「これは、犬ではない」「これは、鍋ではない」「これは、魚ではない」…。果てしなく続く、「ではない」ものを語り続けるしかない。彼は、象そのものには、永久にたどりつけない。

せめて、できることは、「…ではない」果てしない数で、「象」というものを現すしかないのだ。

象にふれることもできず、でない何かによってしか、真実にたどりつけない。それは気の遠くなるような徒労の時間だ。

しかし、それをしてしまうのは理由がある。幼い頃から、無条件に愛されたことがないからだ。常に条件付きの愛しか与えてこられなかった。いい子にしていれば、愛される。それは逆に、いい子でない自分はダメだという否定の海にいるようなもの。

何をしてもいいと許されるのも、実は、つらい。自由の海は、自分の信念がなければ、確たる目標がなければ、不安の海に変る。生き方の選択が委ねられるとは、それほど、こわいことなのだ。それが軽薄な人間関係の方が楽という気持ちを生む。面倒なことから、逃げたいと他者とのかかわりを否定する。

家庭での親子関係が、学校での人間関係が、地域の人の触れ合いが無条件の愛に溢れていれば、子どもの立場になって、叱るべきときは叱る愛と、叱っても、失敗や挫折を受け止める器があれば、若い子たちの心は、こんなに不安で、自信を失いはしなかっただろう。

軽い性情報がコマーシャルの世界の売り物にされる社会を疑い、フリーセックスの中にも、愛やいたわりや思いやりが必要なのだということを教える、心の教育があれば、若い子たちの心は、こんんなにもブレなかっただろう。互いの人権を尊重する気遣いがなければ、フリーセックスなどありえない。


あきらめない、投げやりにならない。それは、すべてのことにいえることなのだ。それを続ければ、次第に人は離れていく。若い頃、そうだとしても、気づいた奴は、一人、また一人とそこから卒業していく。

気づきが遅い奴は、最後まで、そこに留まり、ひとりになるだけだ。損をしているのは、自分だけでしかなくなる。

アメリカンニューシネマ、ダイアン・キートン主演『ミスターグッバイを探して』。そんな不安の中にいる女子には、ぜひ見て欲しい映画。