秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ペルソナ社会の仮面うつ病

人の心の深層は、自分でもわからない。
 
人は、自分が思うほど、実は、自分という人間も、自分という人間がとっている行動も、よく理解できていない。
 
あくまでも、こうなのだという予測と思い込みの中で、自分はこうなのだ、こうしているのだと、一面的な理解と理由付けをしている。そうしないと、自分がいま生きる日常を継続できないからだ。それがないと、社会的なふるまいもできなくなる。
 
そんな本人にも、実はよくわってない自分を、まして他人が理解できることなどない。
 
人が他人をわかってる。わかってくれているような気になれるのは、実は、表層的なものにすぎない。人に応じて、人は、開示する一面が違っている。自分という人間を丸ごと裸にして、他人に開示できるほど、人は、愚かではないし、素直でもない。
 
一面しか開示されてないから、どんな場合でもそこにあるのは、虚飾や辻褄の合わない非論理性、一貫性の欠如が存在する。いうまでもない、それが人というものだからだ。心というものだからだ。
 
だから、人が他人に自分像を語るとき、それは、言動の辻褄あわせに過ぎないか、自分の正当性を保証するための詭弁や嘘に決まっているのだが、おおむね、他者は、よき人であろうとするし、人とのつながりが希薄になるのはいやだから、そうした詭弁や嘘を受け入れる。
 
ある意味、詭弁も嘘の許容も、お互いさま、人間関係をそつなく生きるための方便ともいえるのだ。人は、一貫性や論理性だけでは生きられないことを互いによく知っている。
 
こういうことをいうと、よく、オレはひねくれているといわれる。確かに、ひねくれているかもしれない。
 
だが、まともに心理学や脳科学現代思想社会学を学び、その表象を現実社会の様々な現象、オレでいえば、社会的な問題や人との関係性の諸相を取材し、学び、知れば、決して、個人的なひねくれ感情でそう語っているのではないかことはわかる。
 
オレのHPで常に述べている、他者性の喪失という概念や孤衆というキーワードの奥には、いまこの国で失われている、現実認識をいっているし、その狭さ、甘さ、緩さをいっている。
 
「盲人象をなでる」というコミュニケーションの不全は、いまに始まったことではない。
 
自分が自分であるという基盤や根拠が一枚岩の磐石なものではなくなり、自分という人間が無限に飛散する社会にオレたちは生きている。だから、他者への依存心もが逆に強くなる。
 
人ひとりが生きる一日の中に、あるときはサラリーマンの自分がおり、父親や夫、恋人としての自分があり、音楽や文学を楽しむ、それらとはまったく別の自分がいて、セックスに身をまかせる本能の自分がいる。
 
自分は何をしでかすかわからない存在であり、いくつもの顔を持つ。ゆえに、自分は何者かがわからない。それが現代人の本来の姿なのだ。
 
そこに無理やり、一貫性という法と混同した正義や倫理、道徳を持ち込むから、人は息苦しくなるし、それとの整合性をはかるために、より詭弁を弄しなくてはいけなくなる。
 
一貫性を生きよと強要されることほど、いまという時代、人を追い込むものはない。物差しはひとつではない。人によって違い、自分の物差しは万能の物差しではない。
 
それから自分を守るために、人は、現代の知恵を駆使する。
 
いわく、ペルソナ社会。仮面の時代。そして、仮面うつ病の時代。