秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

時間よ 止まれ

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もう20年以上のお付き合いになる 著名ナレーター 津野まさいさんが主催する朗読会

目白にある 小劇場「アイビット目白」に 仕事でお世話になっている プロデュサーのKさんを

誘って 見てきた


出演は 津野さんの他にも 同じく著名ナレーターの窪田等さん 朗読 講談で著名な内藤和美さん

それに 今回初参加となった 落語家の柳亭左龍さん それに バイオリン奏者の腰原里早子さん


この間のオレの東映作品の試写会に 演出家の斎藤仁さんと 忙しい中 一緒に参加していただいて 

そのとき 1年ぶりに朗読会をやりますと 案内をいただき ぜひ行かせていただきますと 

お伝えしていたのだ


あるヒューマンドキュメントの仕事をするようになって そのとき フューチャーした方の

苦節の人生を描く上で その方の心の中にある 痛みや悲しみ 喜びや感動を 

大仰な押し付けではなく さりげなく しかし やさしく そして 心を込めて 語れる

ナレーターさんは いないものかと 探していた


ナレーターさんは きれいな声 きれいにしゃべれる人は多いが 心が語れる人は少ない


そのとき 著名ナレーターさんが所属することで有名な Sプロダクションのサンプルを聴いて この人

だ!と 思ったのが 津野さんとの出会いだった

そして 一緒に仕事をさせていただく中で その高いテクニックばかりでなく 

他者への気遣いや 思いやりにあふれた 津野さんの声 いや 心のあり様に 敬服し 

すっかり ファンになってしまった

オレの作品や 津野さんとの仕事以外の オレの様々な取り組みにも共感していただき

津野さんの個人的なお話 また オレの個人的なことも話す中で

いつか 映画のことやお互いが取り組んでいることなどを メールで知らせ合うようになっていた  


お会いすることは少ないが オレにとっては オレの取り組みを理解していただける貴重な人だし

ふと またお会いしたい あの声を聴かせていただきたいと思える人


前回は オレがよく行く 乃木坂のコレドでやって 1公演40名ほどのこんじまりした感じだった

実は オレが コレドの常連らしき人間になったのは 津野さんのそのときの朗読会がきっかけ

津野さんの朗読なのに 40名程で この人数はもったいないなと 思いつつ しかし 津野さんらしい

謙虚さだなとも思った


それが 今回は 200近いキャパの小劇場が 満席状態だった オレはマチネーにいったのだが

夜の公演は たぶん 立ち見がでるほどだったのではないだろうか…


津野さんは 朗読会ができたことが ありがたい 

こうして多くのお客さまに 来ていただけたことが ありがたい 

ありがたい ありがたいの 連発だった

そういう人だ 

いつも感じているが 津野さんには ご自分が超一流のナレーターだというおごりが

まったくない いつも少し引いて まず 人様 という心持に溢れている

それが ふと 人に安心を与え その心遣いが どこかなつかしく 時間がゆっくりと

流れているような感覚にさせられるのだ


ラフカディ・オハーン(小泉八雲)は 日本の美 日本人の心は 怪談の中にある と語った

ただ こわいだけでなく そこに男と女のせつない情 この世のものではない 異人との出会いが 

いろいろの意味を持つ

人と人が関り合う中で 心しておかなければならない 倫理や道徳 愛を成就するための 

やさしさやいたわり それが失われたとき 人の心に夜叉が現われる だから きちんと人と向き合え

そうした日本的なるものの 宝庫として 八雲は 日本民話の伝承 とりわけ 怪談にのめりこんだ 

その背後にある高い倫理観と道徳観を 愛した

未知なる大自然 目に見えない力に 人知を超えた力があり それに生かされているという

日本人の未知なるものへの 畏怖と謙虚さを 愛した


そして 明治維新による欧化路線で 富国強兵を目指し 江戸時代まであり 明治になっても

なお 人々の心に残されている 互いへの遠慮 謙虚さ 他者を思う譲り合いや いたわりの精神が

失われつつあることを 深く嘆きながら 日露戦争開戦前年になくなっている

その思いは 『日本の面影』という名著になっている その中で 100年後の日本が軍事大国となり

すべてを失うだろうと 太平洋戦争の敗北 そして いまの日本を予言していた


歪な近代化によって 失われていく日本人の魅力 日本精神 情感を こよなく愛し

それを予見したのが 「お雇い外国人」と呼ばれた 八雲だったのは

わが日本国の恥であり 皮肉だ


今回の 語り会(かたりえ)えんの第2回公演も この世のものではない 異人との出会いや

死して思いを残した人の 現世への 愛への執着がテーマとなっている作品だった

津野さんが朗読した 藤沢周平の『荒れ野』は 秀逸だった


女を抱き 戒律を破った僧が 修行のため 遠隔地の寺へ出される 旅する中で 荒れ野にくる

荒れ野にひとりという恐怖 空腹と喉の渇きに苦しんでいると 女が現われ 荒れ野の一軒家に

案内し かゆをふるまい 遠くへ猟に出いる亭主が とってきたというサルの肉を食わせ 

衰えた体力を回復させる 

やがて 僧は 女を抱く その言い知れぬ快楽に 旅立つことをためらう

しかし その女は 人の肉を喰らう 年老いた鬼女

それに気づいた 僧は 命からがら 荒れ野との分かれ道まで 逃げる

道の分かれが 鬼女の荒れ野の世界と 現実世界との分かれ目なのか そこまで 追ってきた女は

それ以上 僧を追うことができない

僧と出会った武者が 鬼女と聞いて そこに矢を射ようとするが 手をとめる

「あれは 若い女ではないか…」

僧が 顔を上げると 年老いた鬼女に姿を変えていた その女は 出会ったときと同じ若い女の姿

そして 孤独に 寂しげに背中を返し 去っていく

果たして それは本当に鬼女だったのか その疑問を残しながら… 


よくある鬼女物伝説の類型的なパターンだが そこに ある普遍的な男女の関係が読み取れる


いまに置き換えていえば その鬼女は 妻子を持ち まじめに日々生活する男が

ふと これでいいのかと 自分の人生を振り返ったとき 恋をしたあの頃の幻想を抱かせてくれた

若く 美しい女との 不倫の出会いかもしれない 

しかし 女との情愛が深くなり 女が男のすべてを求めるようになる そうなると

家庭を壊してまで その女と一生 これまでの人間関係を断ち切って 生きていけるのか 

そう思うと女を捨てて 日常へと戻らなくてはとも思う 女の男への執着が異常なほど 熱くなれば

男は逃げ出すだろう 

それは 人生の旅で ふと迷いこんだ 非日常なのだから…

一時の快楽におぼれると そういうことになるぞと戒めながら それが男女だとも語っている


あるいは 長く連れ添った妻 互いが若かった頃は 彼女のことをいとおしく思い 

セックスにもふけった しかし 長い月日の中で 年老いた妻を あるとき実感する 

途端に 若い頃愛した あの女ではないという現実 肉体的 性的現実が 男を襲う

こんな女を愛していたのでない いとおしさを感じながらも 年老いた妻の現実に目をそむける 

男も成長し 変っていくが 女は 老いという形で 表に現われる女が衰えていく

その現実を受け入れられない男は 家庭のため 家族のため身を粉にしてきた自分の人生は

何だったのかとも思う 

家のローンだ 子どもの学費だと 職場でストレスを感じているのに 

長く連れ添った妻から 家でもあれこれ口やかましくいわれる

男は 肉体的 性的欲望と かつての妻の幻影を追って 非日常へ 別の女のいる世界へ

逃避行する

しかし 長く連れ添った女が 夫が自分を女として見ていないという現実に直面したとき

もう追うこともできず 背中を返す その後ろ姿は どれほどせつないだろう…


男女の恋の誠 愛とは何なのか

いまに照らせば そんな思いが過ぎる


人は いつもまでも若くいたい と思う とりわけ女には その執着がある

男も いつまでも若い女とふれあえ 好かれる自分でありたいと 思う

そして ふと 何かのきっかけで 時間を止め あの頃の あの感情を取り戻したい

あの若さを取り戻したいと思う

しかし 時間は止められない 変り行く時間 老いという時間の中で それを願うことが

せつない だが 男と女にその愛憎があるから 男と女でもあるのだ


そうしたことを ゆったりした語り口の中から 学ぶ 改めて 確認する

慌しい日々 時間の中では 忙しさにかまめて 脇に置き おろそかにしている

人が生きるということの意味や 男女の真実


津野さんの朗読会は そうした人が生きる上で大切ななにかを

時間を止めて 教えてくれる