秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

東洋人と西洋人

書きかけの小説に向かう。章の変わり目で立ち往生。

気分転換にテレビを付けると、東洋人と西洋人の認識の仕方の違いを検証した番組をやっていた。

いろいろな選択課題を出して、どちらを選択するかで、その人の脳の認識が、どの程度、論理性や関係性
に依拠しているか、あるいは描かれている対象に対して、自我的であるか、そうではないかを検証していたのだ。

オレの選択は、ことごとく、西洋人の選択。関係性や状況に合わせるという、東洋的な調整型の脳ではなく、オレの脳は、論理的で自我的な働きをしているらしい。

あくまで傾向としての東洋人、西洋人だから、一概に、ここでの選択だけで、それと断定することはできないのだろうけど、自分の自己中加減を改めて指摘されたようで、子どもの頃からのオレの生き苦しさは、オレの脳のせいに違いないと、確認する。


ある一枚の絵があって、中心にいる人物が笑い、その周囲にいる人間も笑っている。そこでの質問は、「この人は幸せそうか?」。当然、YESだ。次に、中心にいる人物は同じく笑っているが、その周囲にいる人間は、かすかに怒ったような表情だったり、無表情に近かったりする。そこで、同じ質問。

韓国、中国、日本人の多くは、後者は幸せではないと答え、米、英、カナダ人は、幸せだと回答する。

そのときのオレの脳は、こう働いた。同じように笑っているのだから、幸せに決まってるじゃん。つまり、西洋的。

ややあって、いや、ちょっと待てよ。それだけなら、質問にならない。違いがあるから、質問しているのだ。もう一度、よく考えてみよう…。

そうか、そうか。周囲が笑ってないのだから、東洋的な発想なら、中心にいる人間が笑っていても、それが幸せとは言い切れない。みんなが幸せでなければ、この人物も幸せではない。もし、この人物がそれに気づいてないとしたら、単なるKYということだ。それが、東洋的な正しい回答になる。案の定、結果は、そうだった。


次に、風船の問題。広い芝生と木々が写りこんだ風景の向こうに、青空が見える。そこに風船が飛んでいる。空高く舞い上がるのだが、あるとき、その舞い上がるスピードが速くなる。「それは、どうしてか?」

東洋人の多くは、「風が吹いたから」と答え、西洋人の多くは、「風船の空気が抜けたから」と答える。
当然ながら、オレの答えは、またもや後者。自然など周囲の環境や状況を考慮に入れず、風船そのものを原理的にとらえ、答えを導き出している。


簡単に言えば、I、まずありき。そして、後から、YouやAnotherを考える。ま、自分がまずあって、自分の論理的証明が先に来るということだ。結果、自己主張も強くなる。同時に、他者に対しても、自分の考えを求める。「オレは、こう考える。では、お前はどうなのか?」という展開だ。

オレの場合、意図しないと、「お前はどうなのか? まず、それから聞こう。それを組み入れた上で、オレの考えを述べよう」とならない。

実は、これは、長くオレの致命的な欠陥だった。そのために、この東洋の島国で、対人関係でずいぶん苦労して育っている。あまりに試練を自分から招くので、あるときから、オレは、対人関係の問題が生まれると、IからYouを優先させるために、意図して、思考の回路のスイッチを切り換えることを覚えた。

拙著『思春期の心をつかむ会話術』も、だから、失敗から学んだのだ。

関係性や調整というのは、オレがいつも否定する日本的癒着構造や事なかれ主義の根底にあるものだが、それを全否定してしまうと、実は、多くの日本人は生き苦しさを覚え、それを否定する人間に共感を抱くことは少ない。

自然や他者への感謝を優先させる仏教の考えや東洋的思考には、中心点がない。Iを捨てよというのが基本だ。所詮、いくら論理を駆使したところで、その思考しているIさえ、自然や他者の力がなければ、この世に存在することも、いまこうしてあることもできてはいない。

自然の摂理の前に、人間のIは、あまりに無力だ。

それに気づくと人は謙虚にならざるえない。しかし、戦後の歪な民主主義によって、自我を持つことがこの上なく美徳だとされるようになった結果、I優先の社会が到来してしまったのだ。それが、昨今のいろいろな社会問題の根源にある。

自分の実存の認識や自我の確立を目指すことは、有用なことだと思う。しかし、自分優先から他者優先へ意図して思考のチャンネルを変えられるスイッチを持つことも大事なのだ。それは、優柔不断とは違う。

自力でできることは、限りがあるからだ。他力の中に自分の無力さを見出し、他力をどう自分の中に取りこめるか、それによって、人の器も違ってくる。

それにつけても、クリエーティブであることと、生活者として日々を泳ぎぬくことは、こうも至難なことなのだと、改めて実感する。