秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

愛を読むひと

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ベティと『愛を読むひと』を観にいく。

公開終了、2日前。あやうく観そこなうところだった。劇場で観なければきっと、損をしていた。久々、いい映画だ。ベティは、オレがどうしてこの映画を観ようとしてたのか、当初は、わかっていなかったようだ。なにせ、聞けば、奴はアクション映画やコメディ映画が専門。両親もそうらしい。

娯楽映画が悪いとはいわないが、オレは、まず劇場でそうした映画を観ることはない。ベティにいわせると、こうした重い映画を観ると、家で一人になったときに、あれこれ深く考えてしまい、眠れなくなるのが辛いらしい。

まさに、いまどき映画ファンの共通の言葉。自分の人生の現実や社会の矛盾に向き合うのが息苦しい連中は、映画の中に現実と同じ息苦しさを求めない。現実逃避できる世界、現実を忘れさせてくれる映画でないと、耐えられないのだ。それは、意地悪な言い方をすれば、自分の現実や社会と向き合うこともしていないから。

現実のわずらわしさを避けるために娯楽映画に行く。残念ながら、それでは、映画作品のクオリティは上がっていかない。観客が育たないからだ。作り手も商業主義に流されてしまう。甘く、緩い映画ばやりの昨今の映画環境はそれを物語っている。

しかし、勉強しよう、知ろうとする姿勢があるから、まだベティには見込みがある。感性はいいから、きっかけや情報にもっとふれられれば、奴は変れる。世界は、実は、奴が思うより、もっと広く、そして、理不尽さに溢れている。

原作はドイツのフンボルト大学教授で小説家のベルンハルト・シュリンク。全世界で400万部の大ベストセラーとなった小説の映画化。

主演のケイト・ウィンスレットは、この作品でアカデミー賞主演女優賞を受賞している。作品自体も、作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞にノミネートされた。その他、海外の映画賞も多数受賞している。監督は、『リトル・ダンサー』『イングリッシュ・ペイシェント』といった地味だが、内容の深い作品を独特の裏悲しい色調で描く、英国出身のスティーヴン・ダルトリー。

原作は、The Reader。朗読者。

第二次世界大戦終結して10年以上がたった西ドイツが舞台。日本とは違い、ドイツは、いま現在でも、自国民の手で、愚かな戦争へ導き、ユダヤ人の大量虐殺を生んだナチの独裁政治とその関係者、協力した国民の戦争犯罪を裁き続けている。二度と同じ過ちを犯してはならないという痛烈な自己批判がその背景にあるからだ。

戦後処理をウヤムヤにし、岸信介(お坊ちゃま君、安倍ちゃんのじいちゃん)などA級戦犯を平気で政治の表舞台に立たせてきた、日本とは雲泥の差。バカ右翼の巣窟となっている靖国神社など、ドイツであれば、とうの昔に跡形もなく、消され、国家の事業として戦没者の慰霊塔ができている。

それだけ自国の戦争犯罪に厳しい国での話。しかし、かといって、軽薄な反戦映画などではない。お涙頂戴の恋愛ドラマでもない。

いまでは、知られることもなくなっているが、日本にも、多くの文盲の人がいた。いまもいる。だが、「識字教室」という言葉を知らない人がほとんどだ。差別や貧困で学校にもいけず、文字を学ぶことのできなかった人たちが、中高年、高齢者になって、文字を学ぶ教室。行政が支援している。最近では、外国人が増えている。オレは大阪府の人権啓発の仕事で、識字教室を直接取材している。

日本では、同和地区や在日の人々、極貧の農家の人に文盲の人が多かった。

その理由は、差別。それによる格差。まともな職につけない。収入がない。だから、子どもは貴重な労働力だったのだ。戦前、義務教育であった尋常小学校へもまともに通えない子どもたがいた。戦後しばらくもそうだった。

また、通えたとしても、同和地区の人間、在日の人間ということで、ひどいいじめに遭い、不登校になり、実家の仕事を手伝う子どもも多かった。

結果、文字を学ぶことができないのだ。多くは親も文盲という家がほとんどだったから、身近な大人に文字を学ぶこともできなかった。文字が読めないことで、一層、差別され、仕事らしい仕事につけない。つけたとしても賃金が安い。

文字を失うということは、そのまま、差別、人権侵害につながる。権利主張するための言葉も、自分が受けている差別に意義を唱える言葉も奪われるから。

多くの人が文字が読めないために、自分たちの生きる権利を学ぶこともできず、文字を知らない自分が恥かしい、文字を学べなかった自分が悪いと、文字を学ぶ権利を奪った社会を糾弾もできず、ただ、自分を責め続けた。

そして、理不尽な差別や人権侵害を受け、まるでゴミのような扱いを受けても、悔しさに涙を流し、耐えるしかなかったのだ。

この映画の主人公の女性は、その文盲。彼女の生い立ちは細かに描かれててはいないが、それを知る人間には、彼女の生い立ちの環境がどれほど貧しく、悲惨で、語りようもない辛さにあったか、その一点でわかる。

まだ高校生の少年の若い肉体におぼれ、少年も成熟した女の体に青い性をぶつけ、軽薄なセフレをいきながら、文盲の彼女は、やがて、少年に本を読んでもらうことで、癒しをえる。

しかし、路面電車の車掌をやっていた彼女は仕事ぶりを買われ、事務職に昇格する。文盲であることを知られないために、彼女は、仕事をやめ、アパートを引き払うのだ。おそらく、彼女は物心ついてから、ずっとそうして社会と関わり合ってきた。文字を必要とする仕事を避けながら、文盲であることを知られないために、社会の隅でひっそり、一人で生きてきたのだ。

その彼女は、実は、戦時中、ユダヤ強制収容所アウシュビッツの看守だった。8年後、成長した少年は法学部の学生として、戦争犯罪者の裁判を傍聴する。そこにいたのが、逮捕された彼女。貧しさゆえに、仕事を求め、社会教育の知識がないゆえに、彼女は仕事として、アウシュビッツの看守になった。文盲の彼女がそれでも高所得が得られる仕事だった。その彼女に戦争責任はあるのか? 

新しいユダヤ人収容者が来る度に、古い収容者の中からガス室送りの人間を彼女たちが選別する。教養のない彼女は、仕事として自分のやっていることを疑うことができない。また、所詮、看守。上からの指示は絶対。その中で、彼女は、「仕事」をしただけだった。しかし、裁判長はそれを責める。彼女はいう。「じゃ、あなたなら、どうしたのですか?」。

収容所から別の場所へユダヤ人を移動させる途中、突然火災がおき、ユダヤ人を閉じこめていた教会が燃える。裁判長は、責める。そのとき、なぜ、外へ出さなかったのか。彼女は、いう。彼らは犯罪者。私たちは看守。罪のある人間を外に出す権限は与えられていない。そう考えてしまうしかないのも、彼女が文字を奪われ、社会の常識を学んでいなかったからだ。

裁判にかけれらたほかの女性看守たちは、彼女がリーダーで、すべては彼女の指示でやった。自分たちに罪はないとした嘆願書も彼女が一人で書いたのだと、彼女一人に罪を押し付ける。自分が文盲であることを明らかにすれば、罪は軽くなるにもかかわらず、彼女は、いままで引き摺ってきた文盲ゆえのコンプレックス、文盲である自分が悪い、恥かしいという気持ちから、罪を認めてしまうのだ。

そして、ひとりだけ終身刑を受ける。これまで自分の気持ちの整理をつけることのできなかった、中年になった、かつての少年は、彼女が高齢になった頃、朗読したテープを彼女に送り始める。そして、減刑で刑務所を出る彼女の出所後の生活を看てやることを決意する。だが、出所前日に彼女は自殺してしまうのだ。

ベティは、わかっていだのだろうが、不安で、あえてオレに聞いた。彼女は、どうして自殺したと思いますか?

若いベティには自分が直感した、彼女の感情の動きが間違っていないという確信が薄かったのだろう。しかし、高度成長の入り口に少年時代を過ごし、彼女のような生活環境の中で生きる人を多くみてきたオレたち世代、それに人権や社会問題を長くやっているオレには、わかる。

悲しく、切ない話だ。文盲であるがゆえに、彼女は自分で自分のブライドを守り続けるしかなかったのだ。文盲と知られてしまい、これから先、もう若くもなく、高齢者になってしまった自分の面倒を彼に看てもらうことは許せなかった。

社会に適応する能力もない自分、戦争犯罪者の自分。その面倒を、もはや男女の関係もないところで、かって「恋のようなもの」を共に生きた彼に、引き受けさせることは、彼女の唯一の自尊心を奪うものでしかなかったのだ。年下ゆえに、キッドと呼べる立場のまま、自分の尊厳を保ちたかったのだ。

ケイトは、この逃げ場のないせつない役を見事に演じていた。少なくとも、その姿は、オレが、少年期や人権啓発の作品の取材の中で、出会った幾人かの女性たちに共通する、微妙な心情と重なり合った。

いま、この日本にも、自分の権利を奪われ、理不尽な社会の仕組みや差別の中で、苦しんでいる人がいる。格差社会の中、同和や在日の人でなくとも、その雇用形態や社会的立場によって、人権を蹂躙されている人が生まれている。

オレはいつもいう。

問題なのは、こうした声なき人々の人権なのだ。きれい事の人権、きれい事の正義では、こうした声なき人の人権を守ることはできない。うわべだけの言葉、自分たちの権利さえ守られていればそれでいいという利己的な人権運動では、救えないのだ。

人としての当然の権利を奪われた人の中には、自分ひとりの心の構えで、自己の尊厳を守ろうとする人がいる。そのせつなく、悲しい痛みに気づけない人権運動は、政治の具でしかない。

そのせつなく、悲しい痛みを共有できない人間には、愛は見えない。