秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

日本人の矜持

一週間の缶詰から解放されて、ハンナのばばあの店に顔を出す。

一月半近く、顔を出していなかった。都議選の話、昨今の政治の話、いつものように、この国のていたらくをつまみにする。今期始まった『官僚たちの夏』の話をすると、元農水省大臣官房に勤めていた、ばばあが、ふという。

昔の官僚は、この国のため、国の復興のために、私利私欲を捨てて、みんな働いていたわよ。

そのとおり。それもこれも、復興を支えたエリートたちは、戦前の教育を受けた、正真正銘のエリートたち。倫理と道徳、それに、おバカな国粋主義ではなく、正しい意味での郷土愛、愛国心に溢れていた。貧しい日本をどう立て直すかに真摯だった。

日本国憲法の発布はもとより、女性の参政権をはじめ、戦後民主主義は、明治維新以来の古い国家意識を変え、国民主権、人権の平等という近代国家になくてはならない、人間の基本的な権利をこの国にもたらした。

が、しかし、だからとって、戦前の日本の文化や精神をひっくるめて、すべて否定していいものではなかった。先陣きって、否定したのは、バカ左翼。アメリカ主義に踊らされた脳天気な連中。敗戦から60年後、世界から消えたマルクスレーニン主義にマインドコントロールされた信者たちだ。それが日本を拝金主義、大量生産大量消費の無駄をよしとする国家へ導いてしまった。

結果、いまに続く、倫理や道徳、義侠心や男気、女気、慈悲や慈愛、他者への思いやり、助け合いといった精神まで、ことごとく、打ち壊している。

ハンナのばばあは、農村の女性の労働負担、育児・家事負担を少しでも改善できないかと、農水省の職員になった。女性の抑圧されていた人権の解放。それが彼女が若い頃、自分のミッションとしたものだ。

だが、ハンナのばばあは、男性と歩くとき、その1・2歩後ろを歩く女。戦前の教育を受けた奴は、それが、日本女性としての礼儀、作法と教えられて育った。だが、進歩的な奴は、それを女性差別とも、女性の人権の侵害とも思っていない。前を歩く男性が、おろなか人権意識を露呈したり、他人に対して暴虐侮尽な態度をとれば、きちっと男性に意見をいい、立ち向かう気骨もある。

つまり、思想と、日本人の女性としてのたしなみ、立ち居振る舞いは別ということ。日本人の女性として、守るべき礼儀、作法は失ってはならない。それが、どんなに進歩的な人間でも、いや、進歩的であるがゆえに、身につけておかなければならない、日本人としての矜持、誇りなのだ。

ここは、アメリカでも、ヨーロッパでも、オーストラリアでもない。中国でもないし、韓国でもない。日本だ。自分の国の文化、習慣、礼儀作法、倫理、道徳。それを守らずして、日本人が日本人足りえわけがない。それなくして、自分が外国人と向き合うことも、つながりを持つこともできない。

自分は何者であるかの自覚がないものが、他者とつながりがあえるわけがないからだ。海外で生活したり、海外の人間と深くつきあえば、それがすぐにわかる。

ことわっておくが、バカ国粋主義者やアホ右翼がいってるのは、世界を知らず、外国人とも心を通わせることのできない、島国根性としての、日本精神。そんなものは、ゴミと一緒、うざいし、邪魔なだけ。世界では相手にも、見向きも、尊敬もされない。この国の品格をさらにおとしめる、例のお坊ちゃま君、安倍、麻生もこの類だ。

つまり、文化として、日本、日本精神を体得していない連中の日本主義は、気の弱い、小心者がキャンキャン吠えてるようなもの。文化を体得していれば、いつだって、どっしり構えていられる。また、女性蔑視だ、男性優位だと、目くじら立てて、口角泡を飛ばすようなこともない。肩に力を入れることもなく、ごく自然に、所作、しぐさ、動きが自然と周囲の尊敬や敬意の対象となる。それが、文化を身体化している理想的な姿。

革新のふりをした保守反動の連中には、この身体性が体得できていない。威勢のいい国粋主義者は、身体性があるがごとく、ふるまうが、そこに文化の裏づけがひとつもない。つまり、日本文化を体得した真の左翼も真の右翼もこの国には、ほとんどいないということ。

その権化がいまの自公独裁。私利私欲。ええかっこうし。超鈍感。国民の迷惑かえりみず。自分が一番。
そこには、男気もなければ、女気もなく、人間としての尊厳も垣間見られない。

男は男らしく。女は女らしく。そして、男も女も人間らしく。