お天道様に叱られるばい!
締め切りまじか!
まずいことに、今週末は3連休。オレも18日は遊びの予定を入れている。日曜日はボランティの勉強会もある。ところが、こうしたときほど、台本や企画書の締め切りが連休明けという設定が多い。
オレのように会社をやっていたり、制作関連のクリエーターならば、休みも関係ないのだが、クライアントのサラリーマンは、しっかり休む。となると、提出する期日の休み前までに資料を整えなくてはならない。
結局、短い時間の中で、ガツガツ仕事をしなくてはならなくなる。見積書をつくるとか、単純作業ならいいのだが、なにせ、物を生み出す仕事。ただ、ガツガツやればいいというのでもない。
基本、どこからか、何かが降りてこないことには、納得するもの、いいのものはできない。ところが、この創造の神さまが、あれこれ苦しみ、やばい、やばいと焦って、パニックになるくらいまで、追い詰められないと、現われてくれない。
お前のいのちを削れ。削った分の努力をみて、ぼちぼち出てきてやるわい。なんて感じ。
結局、土壇場で、バタバタ仕上げるということになる。発表や制作が決まっている企画なら、その苦労も快感なのだが、コンペ企画の場合は、どう転ぶかわからない。心血注ぎ、神さまも降りてきているのだが、採用されないこともある。
オレは、自分でいい作品だと思っても、通らなかった企画や台本は、いつも大事にとっておく。こいつらを死なせてなるか、という思いがあるからだ。復活のシナリオは、なかなか実現しないが、データをバサリと消すことができない。書き手、つくり手としての熱い思いがある。
オレは、周囲の制作や物づくりにかかわる人間たちに、この程度でいいだろ、このくらいだったら大丈夫だろ、といった思いのない仕事はやってはいけないといつも言っている。流れ作業のように、制作をこなす、仕事として、うまく要領よくやる。それは、本当にいいものも、人の心に残るものもできない。
シナリオラーターからプロデュサーに転進した長い付き合いの人間が、オレのような書き手は、テレビ・映画の世界にはあまりいないといわれたことがある。技術やテクニックを学び、シナリオの勉強だけしてきた人間には要領がわかっている。生み出す苦労は同じだが、積み重ねた引き出しに逃げられる。
しかし、オレは、発狂するように、自分の体を壁にぶつけるように物を書くというのだ。
確かに。15歳の頃から舞台台本を書き始め、20歳で創作脚本賞を取った頃から、オレは、体をぶつけることを覚えてしまった。また、そうしないと書けない。結果、寿命を削るようにしか、物が書けない。
しかし、それもこれも創造の神さまに、いい子、いい子してもらいたいからだ。
人間を描く以上、だれかの思いを代弁する以上、書き手には、覚悟と決意がいる。自分自身の邪さ、愚かさと向き合う根性がいる。それがなければ、自分が描く人間たちに失礼だ。
人間、すべからく、いい加減だし、要領がいい。オレもそうだ。しかし、この一点では、自分を犠牲にする、他者のために心血注ぐ。それがなくては、ただの人間。魅力のある人間にはなれない。
そいつに渡されたバトンは、だれにも引き継がれない。オレたちでいえば、観客や視聴者に受け止めてもらえない。オレはそう確信している。だから、せめて、創造の神さまの審判だけは受けておきたい。そのために体がボロボロになっても、それはそれで、喜びでもあるのだ。
政治家を始め、面倒なことをさける、自分の身を粉にしない。それでは、人々に何も伝えられないではないか。共鳴も共感もない。
この世の中、それが多すぎる。昨今の政治家も、政治の神さまの顔を見る努力を少しはしたらどうだろう。そうすれば、自分がいま、どういう心で政治に取り組まなくてはいけないかが、見えてくる。
よく昔、おふくろにいわれた。
「そげなことしよったら、あんたたち、お天道様に叱られるばい!」
つまらない言葉のようで、大事な言葉だ。
まずいことに、今週末は3連休。オレも18日は遊びの予定を入れている。日曜日はボランティの勉強会もある。ところが、こうしたときほど、台本や企画書の締め切りが連休明けという設定が多い。
オレのように会社をやっていたり、制作関連のクリエーターならば、休みも関係ないのだが、クライアントのサラリーマンは、しっかり休む。となると、提出する期日の休み前までに資料を整えなくてはならない。
結局、短い時間の中で、ガツガツ仕事をしなくてはならなくなる。見積書をつくるとか、単純作業ならいいのだが、なにせ、物を生み出す仕事。ただ、ガツガツやればいいというのでもない。
基本、どこからか、何かが降りてこないことには、納得するもの、いいのものはできない。ところが、この創造の神さまが、あれこれ苦しみ、やばい、やばいと焦って、パニックになるくらいまで、追い詰められないと、現われてくれない。
お前のいのちを削れ。削った分の努力をみて、ぼちぼち出てきてやるわい。なんて感じ。
結局、土壇場で、バタバタ仕上げるということになる。発表や制作が決まっている企画なら、その苦労も快感なのだが、コンペ企画の場合は、どう転ぶかわからない。心血注ぎ、神さまも降りてきているのだが、採用されないこともある。
オレは、自分でいい作品だと思っても、通らなかった企画や台本は、いつも大事にとっておく。こいつらを死なせてなるか、という思いがあるからだ。復活のシナリオは、なかなか実現しないが、データをバサリと消すことができない。書き手、つくり手としての熱い思いがある。
オレは、周囲の制作や物づくりにかかわる人間たちに、この程度でいいだろ、このくらいだったら大丈夫だろ、といった思いのない仕事はやってはいけないといつも言っている。流れ作業のように、制作をこなす、仕事として、うまく要領よくやる。それは、本当にいいものも、人の心に残るものもできない。
シナリオラーターからプロデュサーに転進した長い付き合いの人間が、オレのような書き手は、テレビ・映画の世界にはあまりいないといわれたことがある。技術やテクニックを学び、シナリオの勉強だけしてきた人間には要領がわかっている。生み出す苦労は同じだが、積み重ねた引き出しに逃げられる。
しかし、オレは、発狂するように、自分の体を壁にぶつけるように物を書くというのだ。
確かに。15歳の頃から舞台台本を書き始め、20歳で創作脚本賞を取った頃から、オレは、体をぶつけることを覚えてしまった。また、そうしないと書けない。結果、寿命を削るようにしか、物が書けない。
しかし、それもこれも創造の神さまに、いい子、いい子してもらいたいからだ。
人間を描く以上、だれかの思いを代弁する以上、書き手には、覚悟と決意がいる。自分自身の邪さ、愚かさと向き合う根性がいる。それがなければ、自分が描く人間たちに失礼だ。
人間、すべからく、いい加減だし、要領がいい。オレもそうだ。しかし、この一点では、自分を犠牲にする、他者のために心血注ぐ。それがなくては、ただの人間。魅力のある人間にはなれない。
そいつに渡されたバトンは、だれにも引き継がれない。オレたちでいえば、観客や視聴者に受け止めてもらえない。オレはそう確信している。だから、せめて、創造の神さまの審判だけは受けておきたい。そのために体がボロボロになっても、それはそれで、喜びでもあるのだ。
政治家を始め、面倒なことをさける、自分の身を粉にしない。それでは、人々に何も伝えられないではないか。共鳴も共感もない。
この世の中、それが多すぎる。昨今の政治家も、政治の神さまの顔を見る努力を少しはしたらどうだろう。そうすれば、自分がいま、どういう心で政治に取り組まなくてはいけないかが、見えてくる。
よく昔、おふくろにいわれた。
「そげなことしよったら、あんたたち、お天道様に叱られるばい!」
つまらない言葉のようで、大事な言葉だ。