秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

不思議な国

自民党内に激震が走しり続けている。まさに、末期的症状。

しかし、実際には、日本新党が結成され、自民党が政権からずり落ちたときから、すでに自民党の凋落は始まっていた。

日本新党の自爆と分裂でなんとか、政権には返り咲いたものの、単独政党では過半数がとれなくなり、それまで、憲法政教分離に反するとして批判していた、野党、公明党創価学会と連立を組んだときには、もはや自民党政権担当能力はなくなっていたのだ。創価学会に魂を売ってしまったからだ。

一度、下野したことで、自民党を支えていた農協を始めとする支持母体の結束が弱まり、票が読めなくなった自民党にとって、創価学会という団体の結束と縛りが生み出す確実な票田は、必要欠くべからずの大票田になってしまった。いま、この国で確実に票が読める、不動票は、学会票しかない。

しかし、これは、政権与党につきたかった公明党創価学会には、またとないチャンスだった。この国の三権、司法・立法・行政を創価学会一色にするのが、公明党の使命。しかし、自分たちが表に出れば、会員数も多いが、それ以上に多い、創価学会嫌いの民意の標的になることを公明党はよく知っている。だから、表看板は自民党でよかったのだ。弱体化した自民党は、公明党創価学会にとっては、自分たちが思うようにコントロールできる都合のいい表の顔に過ぎない。歴史もあれば、信頼もある。自民党が表看板なら民意も反発しない。

そして、事実、自公連立以後、自民党に政策の決定権は実質なくなっていた。選挙において、公明党の応援が得られなければ、自民党は、決定的に敗北する。その状況は連立を組んだときから、いまも変っていない。いや、連立を組んで、その状況は一層加速した。怠け者の自民党議員の多くが大票田の学会票により依存するようになったからだ。

都議会選挙で自民党が大敗したのは、東京が創価学会の拠点だからだ。ここでは、どうしても、創価学会公明党議席を守らなくてはならない。上からの強烈なお達しもある。国政では一歩引いて、自民党に華を持たせることができても、地方選挙である都議会は、その力を全国に示す絶好のチャンス。絶対にアピールしなくてはならない。当然、自民党議員を応援はしても、学会票がそこへ流れることはないのだ。

結果、都議選の自民党の大敗北は、ますます、公明党創価学会なしでは、衆議院議員選挙は闘えないという不安と恐怖を議員に与え、その依存度を高めることになった。公明党創価学会の思惑通りだ。

麻生おろしがこの二日、自民党内で沸き起こっているが、決定的に造反できない、両院議員総会を開くだけの数が集まらないのは、造反すれば、学会票を失うことにつながるから。長々と公明党創価学会に依存し続けてきた結果、自民党の議員が自民党の改革、刷新のために、自由に発言し、行動することができなくなっている。これも、公明党創価学会の思惑通りだ。

いまや、与党の実質的な支配者は公明党創価学会。これは、明らかな事実。衆議院を即解散できなかったのも、投票日を8月末までずらしたのも、公明党創価学会の圧力。福田康夫が尻をまくって、突然辞任したもの、政局日程が公明党創価学会に仕切られ、首相の判断と決断がねじまげられたことへの怒りだ。そのとき、幹事長の麻生は、公明党の言うなりで、福田をまったく支援しなかった。それが、じゃ、あなたやってみなさいよ、公明党とうまくやれる、あなたしかいないでしょう、という福田流の皮肉になった。

要は、いまの自民党公明党創価学会の顔色で、どのようにもころぶということだ。

この国は不思議な国だ。かつて、公明党創価学会がまだ、それほどの力がなく、野党であった頃、政教分離に反するという批判がよくあった。それが、政権与党についた頃から、その批判は鳴りを潜めた。憲法政教分離がどうして必要なのか、それを語る人もいなくなった。幸福の科学までもが政党を立て、選挙に乗り出し、それを批判する人間もいない。

この国は、憲法20条、89条に、政教分離がある。既成事実とは、実におそろしい。公明党創価学会が責められなくなると、じゃ、オレもだ。かつてのオーム真理教も同じだった。マスコミも、政治家も政教分離に口を閉ざし、信教の自由を盾に、宗教団体は政治参加は当然だ、民主主義国家なのだから、宗教者の政治参加のどこが悪いと詭弁を使う。政治参加と政党活動は違うという政教分離がわかっていない。しかし、それを指摘する人もいない。既成事実を蒸し返すのが面倒だからだ。

一つには、どんな圧力がかかるかわからないという恐怖がある。自民党議員が自民党の改革で、自由な発言はできても、自由な行動ができないように。中川など麻生おろしの急先鋒の声は、選挙に敗北する危険がある中、どうしても自身の手で解散したいとだだをこねた麻生への、公明党創価学会の恫喝のように聞こえるのは、オレだけか。

が、しかし、そうした威圧がある国、影の支配がある国とはどういうものか。それでよしとしている国は、まこと不思議な国というしかない。

権力に影の支配はつきもの。その当たり前のような政治の世界に、いま国民はほとほど嫌気が差している。自公独裁のこうした仕組みにも、国民は嫌気が差しているのだ。

自民党が結党以来の危機と本気で自覚しているなら、公明党創価学会の顔色を伺うのではなく、自分たちの意志と決意で自民党の再生を必死で生きよ。選挙で公明党創価学会票が得られなくても、この国のために成すべきことに、純粋なら、それを覚悟で己の信じる道を歩む、自民党魂を見せよ。

その姿なくして、自民党の再生はありえない。